第四話
途中で、わざと唇を離した。
「どうしてあの時、俺とキスしてるってこと、歩波にバラさなかったんだ?」
忍ちゃんの目が見開かれた。
顔を近づけたまま、眼鏡のレンズの向こうにある、その黒目を覗き込む。忍ちゃんが体をよじろうとしたのが、肩を掴んでいる俺の手を通して伝わってきた。体を俺の方へ向かせたまま固定する。放課後の視聴覚室には、俺たち二人しかいない。逃げ場なんて最初からどこにもない。
心まで見られるとでも思ったのか、忍ちゃんは顔ごと視線を逸らした。
「この間は、わたしの友達がいましたから」
「それだけ?」
「それだけです。わたし一人だったら、迷うことなく、先輩のカノジョさんに本当のことを言ってました。先輩は命拾いしたんです」
相変わらず、忍ちゃんの手は胸の前でぎゅっと握られたまま。唇の上と下が強く合わさり、歪な線を描いていた。
虚勢を張る忍ちゃんの横顔を見ていると、胸が満たされていく。
忍ちゃんが俺に多少なりとも好意を抱いていることぐらい、何回目かの上書きをしたときに気づいていた。嫌いな男の唇のために、わざわざ何度も出向く女はいないだろう。
この子の気持ちに気づいたところで、特にどうしようとも思わない。俺には歩波という恋人がいる。今は歩波といることの方がどんな遊びよりも楽しい。それになによりも、俺は忍ちゃんに恋愛感情を微塵も持っていない。忍ちゃんとはキスするだけの関係で充分だ。それ以上はむしろ余分になる。
キスさえできればいい。
二人だけの秘密の、この上書き行為だけは唯一、歩波とのどんな行為でも得られない刺激をもたらしてくれる。性的快感よりも持続し、中毒性の高い、気持ちの昂ぶりだ。
唇を離したとき、忍ちゃんはいつも満たされない顔をする。世界に一人だけ取り残されたような表情を浮かべる。それを見るとどうしようもなく胸が高鳴るのだ。
俺に恋人がいるという事実が、忍ちゃんにそんな顔をさせている。口づけだけではない。普通に会話をしていても、俺が歩波の名前を出したら、途端に不機嫌になる。そういう反応にこそ、忍ちゃんからの好意を強く感じることができた。
「こっちを向いて」
まだ上書きの途中だ。
忍ちゃんは渋りながらも、固く結んだ唇をこちらに向けてくれた。歩波のものと比べるといくらか小振りで、色も薄い。グロスなんて知らなさそうな、まるで忍ちゃんそのもののような、子どもっぽい口唇。でも、ちゃんと柔らかい。
忍ちゃんは今日も自分からは動こうとしない。
いつものように口づけをしていたが、ふいに、俺の中でいたずら心が芽生えた。
今日はいつもと違うことをしてみよう!
ぴったり合わされた忍ちゃんの唇を、俺は舌先でノックした。特に忍ちゃんは嫌がらなかった。これはいけそうだと踏んで、次に、彼女の唇の隙間に舌の先端を滑り込ませようとする。
勢いよく体を突き飛ばされた。
仰け反り、数歩だけ後退した。
椅子に座っていた忍ちゃんは、俺の胸を突いた手で口もとを隠していた。
「なっ、なんですか、今の!?」
「ディープキス」
でぃっ、と短い破裂音がした。
「したことないのか?」
「当たり前です!」
恋人だった男子とは、ずいぶん清いお付き合いをしていたらしい。
「そんなに特別なことじゃないと思うぞ」
「先輩は軽い人だからそう言えるんです」
恥じらうように顔がそむけられた。
「舌を入れるなんて、そんな、粘膜同士のやりとりなんて、せ――セックスと同じじゃないですか!」
したこともないのに、どうしてそう断言できるのだろう?
忍ちゃんのこういう頭の固いところには、ときどき感心すると同時に、呆れてしまう。




