第二話
友達の部活が終わるまで。会わなきゃいけない教師が職員室に戻ってくるまで。あるいは、恋人との待ち合わせ場所に向かうまで。
放課後の、ちょっと時間を潰したいときに、視聴覚室は重宝した。ドアの鍵が壊れているので出入りは自由。そのことを知っているのは俺だけのようで、他の生徒が居座っていることは今まで一度もなかった。
図書室や保健室にも居場所はあったが、視聴覚室の居心地の良さには敵わない。俺の他には誰もいないので、他人の話し声など雑音に煩わされることがない。もう一つの大きな利点は、なんといっても、教師の目が届かないことだ。堂々と音楽プレーヤーを使っていても、携帯ゲーム機をいじっていても、雑誌を読んでいても、絶対に見つからない。空調が自由に使えないことにさえ目をつむれば快適な空間だった。
あの日も、俺は視聴覚室へと向かっていた。年が明けたのはつい先日。三学期が始まって間もなかった。冷たい空気が廊下のリノリウムの上で重なり、音もなく堆積していた。
俺の手には、自販機で買ったばかりのホットココアがあった。冬場の視聴覚室では暖かいドリンクを飲むのが習慣になっていた。
ひと気のない校舎の最上階に、視聴覚室はある。同じ階には空き教室ばかりなので、放課後にわざわざそこまでのぼって来る生徒は俺ぐらいのものだった。
その日は違った。階段をのぼり終えたところで、声がすることに気づいたのだ。男と女、二人ぶんの話し声だった。俺のいる場所からさらに上へと続く階段から聞こえてきていた。
放課後、ひと気のない場所、男子と女子。これらの要素の組み合わせに、好奇心をくすぐられないわけがなかった。
そっと、声のするほうを覗いてみる。踊り場に人影はなかった。踊り場の窓に切り取られた空が見えるのみだ。青空に夕焼けの赤が入り混じって、今まさに、淡い紫色になろうとしていた。
階段の先は屋上だ。屋上へ通じる扉は閉鎖されている。その二人は、踊り場からさらに何段か上がったところで話をしているようだった。
聞き耳を立てた。俺の期待したような行為はおこなわれていなかった。
「どうして……そんなこと言うの?」
女子生徒の声は震えていた。なにかを必死に我慢している気配があった。それが怒りによるものなのか、哀しみによるものなのかまでは、まだわからない。
一方、男子生徒のほうはわかりやすい。
相手の男は明らかに苛立っていた。
「理由なんていちいち説明しなくてもいいだろ」
「いきなり別れたいなんて言われても、納得できないよ。ねぇ、どうして? わたし、なにか嫌なことした? 教えてよ、そうしたら謝るから」
女の声はあとになるにしたがって、悲哀の色を濃くしていった。いつ泣き出しても不思議ではない、切迫したものがあった。
男は言い渋った感じだったが、やがて意を決したようで、早口に答えた。
「お前がやらせてくれねぇからに決まってんだろ」
俺は思わず、へぇ、と小声で呟いてしまった。いま女子生徒がどんな顔をしているのか、見えないのがとても惜しかった。
「これで満足かよ」
「そんなの……」
女子生徒の声は色を無くしていた。
「そういうことって、もっと大人になってからするものでしょ。責任だって……わたしたち、まだ取れないのに。高校生なんだよ? わたしたちには早いって」
「もう聞き飽きたんだよ、そんな優等生みたいな言い訳。バカじゃねぇの。周りのやつらは、みんな済ませてるっていうのに」
「他の人は他の人だよ。わたしたちはわたしたちのペースで付き合っていけばいいはずだよ。だからお願い、別れるなんて言わないで」
いよいよ女子生徒は涙声だ。
それでも、もう男は聞く耳を持たなかった。
「お前なんかに合わせるの、もううんざりだ」
踊り場で人影が揺れた。
俺はすぐに廊下の角に隠れた。息を殺す。
一方的に会話を打ち切った男子生徒が降りてくる。角の壁に背をつけている俺には気づかなかったらしい。足音はそのまま、階下へと消えていった。男が去っていくと廊下は静けさを取り戻した。屋上に続く階段からは、なにも聞こえてこない。
しばらく見ていたが、女子生徒が降りてくる気配は無かった。
気づくと、俺は階段を足音を立てないようにしてのぼっていた。興味をそそられたからだ。セックスを拒んだせいで恋人にフラれた女とは、いったいどんな子なのだろう? 可愛いのか、そうでないのか。少なくとも貞操観念がきついのは間違いなさそうだ。
踊り場まで来たところで振り返り、階段の続きを見上げた。屋上の扉よりも手前、数段くだったところに、一人の女子生徒が座り込んでいた。
彼女は両膝を抱えて、その間に顔をうずめていた。膝頭はスカートにすっぽり覆われていた。白い向こうずねがわずかに覗けている。俺がじっと見ていると、気配を感じたのか、女子生徒が顔を上げた。
目が合う。
処女に違いない、というのが最初の印象だった。恋人に体を許さなかったことと、太い縁の眼鏡、真っ黒の髪、校則を守ったスカート丈が、俺にそう思わせた。
彼女の地味な顔に西日は当たっていなかったが、離れた場所からでも、彼女の頬が塗れているのがわかった。
「大丈夫?」
声をかけられた女子生徒は、勢いよく立ち上がった。そのまま階段を駆け足で降り、俺の脇を通り過ぎようとする。それを俺は、二の腕を掴んで止めていた。
「離してください!」
彼女はキッと睨んでくる。だが威圧感はこれっぽっちもない。間近で見たその顔は、気の毒なほどに赤くなっていた。
「そんな顔で人前に出る気かよ」
「関係ないでしょ、もうどうだって」
腕を大きく振って、俺の手をほどこうとする。しかし彼女のか細い腕にそれだけの力は無かった。女子生徒の暴れていた腕はじょじょに大人しくなっていき、最後には小刻みに震えるだけとなった。
「もうイヤ……どうして……こんなの」
彼女の瞳から雫がとめどなく溢れ出てくる。頬を伝い、重力に従って、細い顎の下端へ流れていく。集まり、大きな一粒となった涙が、踊り場の床に染みを作った。俺はそれを、特になんの感情も抱かずに見下ろしていた。
この女子生徒に同情することはなかった。むしろ、一方的に手酷い別れを告げたあの男子の、これから先が心配になった。あんな言葉を投げつけて恋人をふったと周囲に知れ渡ったら、女子からの評価はだだ下がりだろう。最初からセックスが目当てで付き合ったにしても、もっと上手に別れるべきだった。
どちらに非があるわけでもない。
付き合う相手がお互いに悪かっただけの話だ。
しかし当の女子生徒にとっては、そう簡単に割り切れるものではなかったのだろう。泣きやむ気配はまったくなかった。このまま延々しゃくり上げる様子を見せられるのは遠慮したかった。
「こっちにおいで」
俺は彼女の腕を引っ張って、階段を降りた。
視聴覚室に入る。鍵はやっぱり壊れていたし、中には誰もいなかった。てきとうな席に女子生徒を座らせる。俺はその隣の椅子に腰をおろした。
「これでも飲んで落ち着きなよ」
泣きじゃくっている女子の鼻先に、持っていた一二〇ミリリットルのペットボトルを差し出す。一人で飲むために買っていたホットココアだ。
女子はココアを一瞥しただけで、受け取ろうとはしなかった。
セーラー服の襟元を見る。付けられた校章のバッジの色は、俺のものとは違っていた。
「きみは一年生だね? 名前は?」
女子は目元を拭っていた手を止めた。出てくる涙の量はいくらか少なくなり始めていた。
「俺は滝沢錬。二年生。きみは?」
彼女の唇の隙間から吐き出される空気は震えていた。その中に、言葉として聞き取れる音が混じった。
「望月……忍」
「忍ちゃん。これ、飲みな? 温かくて甘いよ」
赤く腫れた目が疑るように向けられる。
「大丈夫、まだキャップ開けてないから」
笑って見せる。それがどれほど、彼女の警戒心を緩めることに役立ったのかは不明だ。気長に待ってみると、忍ちゃんはおずおずとホットココアに指を伸ばしてきた。
彼女の手に、ペットボトルが渡った。
忍ちゃんはボトルのキャップにすぐには触れようとしなかった。本当にもらっていいものか、心配している様子だった。両手で持ったままのココアのボトルと、俺の顔との間で視線を往復させた。
飲んでいいんだよ。
俺は頷くことで、彼女に伝えた。するとようやく、忍ちゃんはキャップを回してくれた。遠慮が抜けきったわけではなかったようだ。ココアを口元へ運ぶまでにも、何度か、俺のほうに視線を寄越してきた。
唇にボトルの口をつけ、傾ける。ホットココアが彼女の中を流れ落ちていくのに合わせて、喉がわずかに上下するのが見て取れた。
「……甘い」
何口か飲んで、忍ちゃんはそんな当たり前のことを呟いた。涙は完全に止まっていた。吐息も、もう震え混じりではない。
「ごめんなさい、飲んじゃって」
ペットボトルが机に置かれる。中身はまだたっぷり残っていた。
「落ち着いた?」
忍ちゃんは目を逸らした。
「先輩、聞いてたんですか?」
言外に、さっきの男子との別れ話を、と付け加えられている気がした。
「ちょっとだけ。たまたま階段の前を通りかかったら、話し声が聞こえてきて、そのままつい立ち聞きしちゃったんだ。ごめんな」
わざと明るい口調で謝った。
忍ちゃんはバツが悪そうな顔をするだけで、なにも言い返してこなかった。
沈黙が続いたら目の前の女の子は気まずく思いそうだった。間をもたせるため、思いつくままに話をすることにした。
「ここの視聴覚室のドアの鍵、壊れててさ。一人で時間を潰すには持って来いなんだよ。あ、俺がここ使ってるっていうのは秘密だぜ? センセーにバレたらうるさいからさぁ」
「先輩って恋人、いますか?」
脈絡もへったくれもなかった。
「なんだよ、告白か? 知り合って間もない俺に乗り換えようなんて、見かけによらず積極的なやつだな」
忍ちゃんは眉を寄せた。軽い冗談のつもりだったのだが、思った以上に不愉快そうな顔をされてしまった。俺は肩の力を抜いて、後輩に素直に答えた。
「いるよ。去年の夏から付き合ってる」
「何人目ですか?」
「さぁ、何人目だろう」
目が伏せられる。
「わたしは、彼が初めてだったんです。生まれて初めてできた恋人でした。告白されたときは、なんかの間違いじゃないかって思って……でも、嬉しかった。わたしなんかでも、男の人と付き合えるんだって」
スカートの太もものあたりが握りしめられていた。歪んだ線を描くプリーツを見下ろすみたいに、忍ちゃんが俯く。
「デートとかも初めての連続で、いつもドキドキしてました。着ていく服とかにも気を遣って。あんまりおしゃれとかわからないけど、それでも、彼は可愛いよって言ってくれました。いま考えると……ああいうの、全部、嘘だったのかな……」
語尾が上ずっていた。
「本当は誰でもいいからしたいだけで、それで、ご機嫌を取るためだけにああいうこと言ってくれてたのかな」
その可能性は捨てきれないだろう。
思ったものの、胸の中にしまっておく。
「キスも」
俺の耳を素通りしていく声の中、ぽつりと零されたその一言だけは、なぜか他のものと違って鼓膜に引っかかった。
「キスも初めてで、ドキドキしちゃってたんですけど……彼にとってはただの通過点だったんですね。その先にしか、興味がなかったみたいだから」
忘れたいです。
小さくもハッキリと、忍ちゃんは最後にそう言った。
「忘れたい?」
「彼とキスしたっていうこと……あんな、一人でバカみたいにドキドキしてた自分とか、全部。キスなんて、もう大嫌いです」
吐き捨てるような口調だった。
あんな振られ方をした直後では、無理もないのかもしれない。それでも、たとえ表面上だけであっても、うんと頷くことは俺にはできなかった。
我慢できず、椅子から立ち上がる。
「そんな嫌なキスだったんなら、忘れさせてやろうか」
「できるものならやってくださいよ」
できっこないくせに――そう言われた気がした。
忍ちゃんは俯いたままだ。
「わかった」
俺は忍ちゃんの顔に手を伸ばした。頬を両手ではさみ、持ち上げるようにして、顔をこちらに向かせる。戸惑ったように見開かれた目が、俺を見上げた。
ためらうことなく、忍ちゃんの小さな唇に自分のものを重ねた。避けられはしなかった。あるいは避けようとは思ったものの、突然のことに、反応できなかっただけかもしれない。
唇を触れ合わせた直後の数秒間、忍ちゃんは石像のように固まっていた。
石像の腕が動き出す。
胸を強く突かれて、俺は数歩後ずさった。
忍ちゃんは信じられないという面持ちだった。
「なにするんですか!?」
「なにって……忘れたいっていうから、上書きしてあげようと思ったんじゃないか。キスは楽しいものだぜ? そんなふうに、キスに嫌なイメージを持ってるのはもったいないよ」
忍ちゃんの唇がセーラー服の袖で力強く何度もこすられた。
「先輩、カノジョさんがいるんですよね。こんなことしていいと思ってるんですか」
「あいつは他の学校に通ってるんだ。キスの一つや二つ、バレやしないよ。忍ちゃんがチクったりしなければだけど」
椅子が勢いよく引かれた。不快感をあらわにした忍ちゃんは席を立つや、睨みつけてくる。
「結局、先輩も、彼と同じなんですね。女の子なら誰でも――わたしだって構わないっていう」
「あんな童貞と一緒にしないで欲しいな。俺は忍ちゃんとやりたいなんてかけらも思ってないぜ。ただ純粋に、キスは悪いものじゃない、ドキドキするものだってことを教えてあげたいだけさ」
うそ偽りのない言葉を俺は伝えたつもりだった。
どれだけ忍ちゃんは信じてくれただろうか?
ドアの方へ体を向けた。
「最低です、キスも、先輩も」
忍ちゃんは視聴覚室から走り去っていった。
机の上に残されたホットココアを飲むと、忍ちゃんの唇と同じ味がした。心を暖かく包んでくれる、甘いチョコレート味だった。
地味な後輩とは、さすがに、それっきりになると思った。残念なことではなかった。俺は特別、望月忍に好意を抱いたわけでもなかった。唇を触れ合わせたのはその場の流れによるものだ。継続的な関係が欲しかったわけでもない。
もう一度会おうとしたのは、俺ではなかった。
初めて忍ちゃんと唇を重ねてから数日後のことだ。放課後、いつものように視聴覚室へと向かった俺は少しばかり驚かされた。視聴覚室のドアの前に、忍ちゃんの姿があったからだ。
「……滝沢先輩」
俺に何か用事があるはずだった。それを、地味な後輩はなかなか切り出そうとしてこなかった。
「どうした?」
先を促してあげることで、忍ちゃんはようやく口を開いた。恥じらうように、顔を伏せながら。
「上書き……まだ、終わってません」
目の前の女子がなにを言っているのか、理解するまでに数秒を要した。上書き。それはついこの間、俺がこの女の子にしようとしたことだった。
キスして欲しい。
遠回しにそう伝えられていることに気づいた。口もとが緩みそうになった。
みなまで言わせず、俺は視聴覚室のドアを開けて、忍ちゃんを中へ入れた。上書きはまた、その日だけでは不充分だったらしい。忍ちゃんは視聴覚室をほぼ毎日訪れるようになった。そしてやはり、言葉にはしないまでも、唇をせがんだ。
彼女との関係はそういうふうにして始まったのだ。放課後の視聴覚室で会っては、キスだけをする、この奇妙な関係は。




