第一話
唇を重ねている間はずっと、胸の前で両手を握りしめている。それが忍ちゃんの癖だ。今だってそうだ。
顔を離して、視線を下へ向けてみる。セーラー服の胸元で、ぎゅっと握られた忍ちゃんの拳がかすかに震えていた。暖房のついていない、放課後の視聴覚室はたしかに冷え込む。けど、この子の震えは寒さによるものではない。俺は自信を持ってそう言えた。
「先輩……?」
真一文字に結ばれていた忍ちゃんの唇が、心細そうに俺を呼ぶ。急に口づけをやめられて不安になったのだろう。太いフレームの眼鏡のレンズ越しに、忍ちゃんが瞼を薄く開けていた。
掴んでいた肩を引き寄せて、もう一度、忍ちゃんに顔を近づける。彼女は椅子に座っているので、自然と、俺は上からキスすることになる。唇が触れあう瞬間、忍ちゃんが息を呑むのがわかった。
少しかさついた、小振りな忍ちゃんの唇。それでも柔らかさは他の女の子と同じくらいだ。干したての布団のように、沈み込めば形を変え、俺を受け入れてくれる。
空気の震える音が小さく聞こえていた。視聴覚室の窓は閉め切ってある。音の源は、忍ちゃんの鼻孔。豆粒ほどの小ささの鼻の穴で、忍ちゃんが一生懸命に息をしているのだ。これがずいぶん不規則で、ゆっくりと空気を吐き出したかと思えば、一気に吸い込みもする。泣いているときみたいだ、と思った。
触れ合わせている場所をわずかにずらしたときには、呼吸がぴたっと止まる。そんなふうにいちいち可愛い反応を見せてくれる、この年下の女の子が、俺のお気に入りだった。
キスされているとき、忍ちゃんの唇は瞼と同じくらい、固く閉ざされている。だからお互いに言葉を交わすことなんてない。夕日の橙色が差し込む教室では、忍ちゃんのぎこちない息づかいがよく聞こえる。
片手を彼女の肩から、後頭部へと移す。忍ちゃんの長い髪は後ろのほうで三つ編みにまとめられ、そのまま背中へ垂れていた。お利口さんにも校則に従っている彼女は、髪を染めていない。撫でてみると、結われた忍ちゃんの黒髪の上を俺の手のひらはするすると滑っていった。
今日はどれくらいの間、忍ちゃんとのキスを楽しんだだろうか?
やがて、胸になにかが押しつけられた。見るまでもない。忍ちゃんの握り拳が開かれ、ほんの弱い力で俺を離そうとしているのだった。それがいつもの、彼女の出すサインだ。
俺は終わりを悟るや、顔を離した。
忍ちゃんの唇がうごめく。
「今日は、もう、いいです」
熱に浮かされたような言い方だった。
「そっか。うん、わかった」
続いて、彼女に触れていた手を引っ込める。
これで今日のところは終了だ。物足りないというのが正直な気持ちだけど、深追いはしない。
机に腰掛ける。
忍ちゃんは椅子に座ったまま、俺と視線を合わせようとはしない。キスのあとは決まってこんな態度を取る。膝頭を隠すほど長いスカートの、太もものあたりを握ったまま、ばつが悪そうにそっぽを向いている。
普段は色白な忍ちゃんの耳たぶが、桃色に紅潮している。夕日の日差しのせいでそう見えている、というわけでもないだろう。
「最近はちゃんと息ができるようになったね。ほんの少し前なら、キスしてる間はずっと息を止めてたのに」
眼鏡の向こうから、不愉快そうな視線が送られた。
「……うるさいです」
刺々しい口調で返されてしまう。知り合ってまだ一ヶ月も経っていないのに、この容赦の無さ。相手が忍ちゃんなら、それも可愛いものだ。
忍ちゃんと俺は学年が一つ離れている。後輩であるこの女の子は、他の子たちと比べても、かなり線が細い。化粧気もまったくなく、太い縁の眼鏡、三つ編みが彼女の地味な見た目に拍車をかけている。
学校にわんさかいる女子たちとは、違う。悪い意味で浮いていた。
「上書き、ちゃんと進んでるかな?」
困らせることを承知で訊いてみた。
「そうですね……」
忍ちゃんは視聴覚室の床の上に、視線を這わせた。
「進んでる、と思いますよ……はい」
「歯切れが悪いな」
彼女の反応が面白くて、つい追い打ちをかける。
それでカッとなったのか。
忍ちゃんの口元で、もっ、という音が破裂した。
「もとはといえば、先輩が最初にしてきたんじゃないですか! それなのになんなんですか、先輩は、早く終わって欲しいんですか! そんなの身勝手じゃないんですか!」
早口にまくし立ててきた。
俺は両の手の平を向けて、落ち着きなよ、とジェスチャーして見せる。
「そういうわけじゃないけどサ。忍ちゃんはこのままでいいのかなって思って。恋人でもない男とキスしてるっていうのは」
「滝沢先輩だって――」
声のトーンがいくぶん落とされた。
窓から差し込んでくる西日は忍ちゃんの上半身を照らしていたが、腰から下は陰にすっぽり入っていた。忍ちゃんの唇から零れてくる言葉は、床の上に広がった薄い闇に沈んでいく。
「先輩が、それを言うんですか」
俯いた忍ちゃんの横顔は苦しそうだった。俺は自分の頬が必要以上に緩んでいるのを自覚した。いけない、と思って、すぐに顔面の筋肉に力を入れる。
もっとも、俺の表情の変化を気にするだけの余裕なんて彼女には無いだろう。俺がこうして悦に入っていることも、この後輩は知りもしない。
忍ちゃんの言葉を最後に、会話は途切れた。
この沈黙は心地のいいものだった。俺にとっては、暗い顔をしたこの女子をじっと見ることのできる時間だからだ。忍ちゃんはどんな気持ちをしているのだろう? 想像しただけでも、胸が高鳴った。
惜しいことに、楽しい時間は長くは続かなかった。
学ランの胸ポケットに入れていた俺の携帯電話が歌い出した。電話がかかってきたわけではない。着信音の種類から、メッセージが送られてきたのだとわかる。
携帯をポケットから取り出す。画面上に指を滑らせて、メッセージを表示させる。
「歩波からだ」
「……いちいち教えてくれなくていいです」
返信のメッセージを、携帯電話に打ち込む。
椅子の脚が床を引っ掻く音がした。
携帯の画面から顔をあげると、忍ちゃんが立ち上がっていた。
「帰ります」
「どうせなら一緒に帰ろうぜ。ちょっと待っててよ。さっさと返事送っちゃうから」
「お気遣いなく。先輩はゆっくり、カノジョさんへのメールを打っててください」
冷たく言って、忍ちゃんは机の上に置いていたスクールバッグの取っ手を掴んだ。そのまま、早足で視聴覚室のドアへと進んでいく。おい、と声をかけたが、振り向いてはくれなかった。立ち止まりもしない。忍ちゃんの後ろ姿は、ドアの向こうにさっさと消えていった。
閉められたドアのほうを、俺は見続けた。
少しからかいすぎたかもしれないな。
そう思った。でも、なにも反省することはなかった。まぁいいや、と受け止めるだけ。忍ちゃんが不機嫌になってしまったことよりも、まずは歩波――俺の恋人へメッセージを送り返すことの方が重要だ。




