3・一話の途中ですが《廃業の危機》です
夜空が、朱に染まっていた。
カエデの背中で炎が踊り、悲鳴が木霊する。
友の、両親の、同胞の断末魔だ。
村を焼く野盗。十年前の記憶。無力な自分の、後悔。
彼には逃げることしか出来なかった。立ち向かう勇気すら持てなかった。
力が欲しかった。
誰にも負けない力が。戦を終わらせる力が。
だが、どんなに願っても彼の細い腕に奇跡は宿らない。
無力な若者はただ、絶望を胸に走ることしかできなかった。
――いつもそうだ。
故郷が焼かれた時も、同じ釜の飯を食った仲間が討ち死にした時も、家族にも等しい部下を死地へ送る命令を下した時も。
――俺は、何も守る事が出来なかった。
突き刺さるような痛みを感じながら、彼はただ闇に向かい逃げ続ける。
体に纏わりつく、途切れる事の無い死と悲鳴を背負って。
■
事件から一夜明け、翌朝。
悪意を感じるほどに窓の外は晴れ渡っていた。
硝子越しに照りつける日差しがモカの頬を焼き、じわじわと汗を滲ませる。
「おはよう! モカ姉ちゃ……チーフ!」
「おはよ、ティム。今日はお休みだから普段通りで良いわよ」
一階の大食堂に入ると、最年少の少年が食事をテーブルに並べていた。元気なあいさつをする彼に優しく返す。
現在、ホテルは休業中。折角の機会なので、全員で朝食を囲む事にしたのだ。
「ネミッサ姉ちゃんも、凄く張りきってるよ。みんなで朝ゴハンなんて久しぶりだから、残った食材全部使ってやるって」
「あらあら、楽しみにしてるわね」
腕まくりをする調理班リーダーの姿が目に浮かび、思わず笑みがこぼれる。
フロルの誰もがモカの弟であり、妹なのだ。
戦争で親を失った彼女たちは、同じ孤児院で幼少時を過ごし、そしてカエデに拾われた。
仕事をしないオーナーではあったが、モカ達を雇ってくれた感謝だけは忘れてはいない。
「それで、先生はまだ来てないの?」
「んー、まだ寝てんじゃないかな? あ、姉ちゃんはスプーンとフォークお願いね」
「ふふっ。もう並べてるわよ」
「さっすがチーフ。仕事が早ぇや」
テーブルに食器を並べながら、軽くため息をつく。
今日の食事会を提案したのはカエデだった。どうやら、食事の後で今後の方針を発表するらしい。
だが、当の主催者が来ないとはどういうことだろうか。
もう一つ、モカの気分を沈ませるものがあった。
テーブルに無造作に置かれたニュースペーパーだ。一面に大きく昨日の事件の事が報じられている。
英雄の経営するホテルで殺人事件が起き、そして犯人もまた英雄である事を面白可笑しく書きたてていた。
「……人ごとだと思って」
ぶつぶつと呟きながら食事を並べている間にも、続々と従業員が食堂へと集まってくる。
「相変わらず時間にルーズなんだから」
結局、十五人全ての従業員が集まってもカエデが現れる事は無かった。
「もうちょっと待っててね。すぐに起こしてくるから」
「その必要は無い」
モカが食堂から出ようとした時、聞き慣れた不遜な声が響き渡った。
「もう、遅いですよ先せ……って、どうしたんですか。酷い顔色ですよ」
「寝覚めが悪くてな。だが、顔に関しては人の事を言えまい」
血の気の無い唇を震わせ、カエデが言い返す。
モカも、そしてこの場にいる全てのきょうだい達の顔には疲労が色濃く残っていた。
昨日はカエデ達が事情聴取でホテルを発った後、総出で宿泊客を別の宿に送ったりなどの雑事をしていたのだ。それも、警察の事情聴取を受けながら。
聴取は滞りなく済んでいたようだが、問題が解決したわけではない。
誰もが眠れず、不安な夜を過ごしたことだろう。
「あんな事件が起きたんだ。眠れなくて当然だ。だが、食事だけはちゃんと取っておけ。話はその後にする」
カエデが席に着き、スプーンを握る。
フロルはこれからどうなるのだろう。
彼の動きを合図に、重苦しい食事の時間が始まった。
■
そして全員が食事を終えた頃。
静かな食堂の中心で、カエデが大仰に言い放った。
「しばらくは休業になる。警官も来るだろうし。仕事どころじゃないからな。たまの休みだ。ゆっくりしてくれ」
だが、テーブルを囲んだ十五人の誰として、彼の言葉で安堵した者はいなかった。
「ホテルの悪評を雪ぐ事はしないんですか?」
恐らく従業員の誰もが思っている事を、モカが口にする。
「お前達が気にするような事じゃない。実務を真面目にやってれば、すぐに客も取り戻せるさ」
さも当然、と言う風な雇い主の言葉にモカの心に思わず反感が芽生えた。
実務を真面目にやっていたと言うのに理不尽な事件が起きたではないか、と。
「……本当に、そうなんですか?」
拳を握りしめ、声を絞り出す。
悔しかった。誇りを持って働く職場で、汚らわしい犯罪が行われた事が。
憎かった。恐ろしい事件を起こした犯人が。
客商売において悪評は致命的だ。しかも《殺人事件が起きたホテル》と来ている。
「本当に、何もしなくていいんですか?」
そして何より、情けなかった。
自分の雇い主であり、幼い頃は尊敬していた英雄に一切のやる気が見られない事が。
《ホテル・フロル》は、彼女――いや、ここにいる全員の仕事場であり家である。
スタッフは全て住み込み。しかも、モカと共に同じ施設で育ってきたきょうだい達だ。
カエデは飢えようがどうなろうがどうでもいい。だが、弟や妹が路頭に迷う事だけはどうしても我慢ならなかった。
「先生。いや、オーナーの指示は聞けません。私達で勝手にやらせてもらいます」
「勝手にだと。何を、どうやって?」
睨みつけるモカだったが、カエデの視線は冷たい物だった。
「もし、《爆炎の魔術姫》の容疑が外れてみろ。次に疑いがかかるのは誰だ?」
「それは……鍵を持っている私たち、ですけど。もしかして、先生は疑ってるんですか?」
「馬鹿言え。だが、大事なのは世間がどう見るかだ。疑われたままじゃ、営業を再開した所で客が寄り付かないのがオチだ」
ならば、どうしろと言うのだろうか。
このまま営業を再開してもじり貧。しかし、動かなければ事態は変わらない。
先にあるのは、廃業の二文字だけ。
モカを含めた数人ならば、経験を買われて再就職先が見つかるかもしれない。だが、全員と言う訳にはいかないだろう。
悪い想像ばかりが彼女の頭をよぎる。
沈黙が広い食堂を支配し、重い空気がモカ達に圧し掛かっていた。
「あの、私……張り紙を作ります! 絵は得意なんです」
静寂を破ったのは、接客班のマリアだった。
「え、えっと。新聞広告みたいなイラスト入りの張り紙を街に張るんです。ホテル・フロルにもう危険は無いって」
立ち上がり、身振り手振りで説明をするマリアを見て、きょうだい達の瞳に光が宿る。
「だ、だったら僕も……何かする!」
マリアの熱気に当てられ、次に立ち上がったのは、厨房班のティムだ。最年少らしい小さな体を目いっぱいに広げ、強がっている。
「ちびティム一人で何が出来るってのよ。ねえねえ、ホテルが暇な間は露店をやればいいと思うの。アタシ達のゴハンでストリートを虜にしてやるわ!」
さらに続いたのは厨房班のリーダー。そして、関を切ったかのように「俺も!」「私も!」と、従業員達が次々立ち上がって行く。
「みんな……そう、だよね。みんなでやれば出来ない事なんて無いもんね」
改めて思い知らされる。フロルは大きな家族なのだと。
拾ってくれたカエデに恩はあるが、それ以上の絆でモカ達は繋がっているのだ。
瞼に熱が宿り、熱いしずくが零れそうになる。
――大丈夫。私たちなら、出来る。
決意を新たに、カエデを睨み返す。
ホテルの再起は従業員の総意だ。例えオーナーと言えど拒否はさせないつもりだった。
だが、どう言うことだろうか。
「くくっ。くくく……くくくはっははははははははは!」
カエデは、笑っていた。
立ち上がり、モカたちを見回しながら腹を押さえていたのだ。
敵意と縋るような視線を向けられていると言うのに。心の底から嬉しそうに、楽しそうに。
「くくっ。みんなで、か。チビガキどもが言うようになりやがって」
ひとしきり笑い声を上げた後、再び彼の表情が冷たいものへと変わる。
「だが、却下だ」
「……な、何で!」
「新聞や本が出回るようになって幾分経つが、紙は未だに高い。街中に張るってのは何枚だ? 百枚か、千枚か、それとも五千か。とてもじゃないが、採算が取れるとは思えんな」
「だからと言って……」
「それにもう一つ。ウチはホテルだ。客のほとんどは城砦都市の外の人間だろう? 外の人間にはどうやって知らせる。国中回って張って回るって言うのか?」
「だったら露店は……!」
「無駄だ。事件が解決しない以上、俺達は警察に目を付けられたままだ。役所から出店許可が降りるわけがない。潰されるのがオチだ」
「じ、じゃあ……どうすればいいんですか! 先生は否定するばっかりで何もしてないじゃないですか!」
がたと椅子から立ち上がり、掴みかからんばかりの勢いでカエデを見上げる。
我慢の限界だった。
「やる事は一つ」
涙を零すモカを見下ろし、囁くようにカエデが口にする。
「一、つ?」
思わず、問い返す。
カエデの様子は、明らかにいつもと違った。
やる気の無さも、全てを下に見るような軽薄さも消えていた。
代わりに存在するのは、包み込むような優しいまなざし。
カエデがゆっくりと、立ち尽くす従業員達に視線を向け――そして、口にした。
いつもの不敵な笑みを浮かべ、芝居がかった大仰な口調で。
高らかに、自信たっぷりに。
「……この事件の、捜査だ!」
誰もが言葉を失った。
この男は非常時に何を言っているのだろう。
好奇心が服を着て歩いているバカだとは思っていたが、想像をはるかに超えていた。
「何を呆けている。思考停止するな。いつも言っているだろう。知は力だ、と」
「か、考えたって分かるわけ無いじゃないですか! ふざけないでください!」
「お前にゃ悪いが真剣だ。マリアの《張り紙》。実に良いアイデアじゃないか。お陰で勝ち筋が見えた」
確かに、カエデの表情は真面目そのもの。冗談やふざけている様子は無い。
だからこそ、モカはもとより従業員の誰もが頭に疑問符を浮かべざるを得なかった。
「分からないか? ならば一つ問題を出してやろう。《殺人事件の起きたホテル》だと評判は悪いが、《殺人事件を解決したホテル》だとどうなる?」
「そりゃあ、面白がられると思いますけど……って、まさか」
「そう、そのまさかだ。統一戦争の英雄が経営するホテルのスタッフが難事件を解決。悪評もブッ飛ぶインパクトだと思わないか?」
余りに突飛な発言に目を剥くモカ達。
そんな彼女達に向け、自信満々にカエデは言葉を続けていく。
「そして、事件解決のタイミングで新聞に広告を打つ。一面にでっかくな。あとは新聞社や市民が勝手に盛り上げてくれるだろうさ」
手元の新聞を拾い上げ、振りかざす。
確かに、話題性は凄まじいだろう。ジャーナリズムを吹聴する新聞社も、営利組織である以上は大きな事件には飛び付かざるを得ない。
「さあ、これから忙しくなるぞ。厨房班は今回の事件解決に相応しい限定メニューを考えとけ! 人間ってのは《限定》って文字に弱い。胃袋とハートをガッチリ掴んでやれ!」
カエデがティム達厨房班の元に歩み寄り、肩を叩く。
呆気にとられていた厨房班の面々だったが、衝撃でようやく正気に返る。
「返事はどうした!」
「は、はいっ!」
半ば勢いに圧されてではあったが、元気の良い返事にカエデは満足げにうなづく。
次に彼が目を向けたのは、テーブルの向いに座る接客班だった。
「接客班は再オープンに備えて清掃を怠るな。ピッカピカにしてお客さんを出迎えろ。ホテルを舞台に例えるなら、お前らは役者だ。宿泊客を魅了してやれ!」
「はい!」
マリアを筆頭に明るい返事が上がる。
そして、最後に目を向けられたのはモカだった。
ゆっくりと歩み寄りながら、彼は最後の指示を口にする。
「モカは俺の助手としてついてこい。悪いが矢面に立ってもらうぞ。この案件は《俺とフロルのスタッフにより解決した》と言う事実が必要だからな」
「へ? あ、あの……?」
「チーフ! 返事はどうした!」
「は、はいっ!」
今までに無い迫力に気圧され、モカの喉から上ずった声が漏れる。
「声が小さい。そんな弱気で《家族》が守れると思っているのか!」
「……はいっ! 失礼しました」
モカの放った腹の底からの声を聞き、カエデが満足げな笑みを浮かべる。
「そう、それでいい」
彼の瞳には、精気が満ちていた。そこに昨日までのぐうたらなオーナーの姿は無い。
英雄が、帰って来たのだ。
確かな予感がモカの胸を熱くさせる。
「俺達はホテルを空けるが、お前らは作業が終わったらしっかりと休んでおくように。地獄のような忙しさが待っているんだからな」
「もちろん、その時は事件解決の主役として先生もフロアに出てくれますよね?」
期待を込め、カエデを見つめる。
彼は真っ直ぐに視線を受け止め笑顔で頷き、そして迷いの無い口調で答えた。
「それだけは断るッ!」と。
「断るなっ!」
「じぇとあぱっ!」
モカの全身全霊を込めたアッパーカットで吹き飛ぶカエデ。
見慣れた光景に大笑いするきょうだい達。
一日ぶりに目にした、フロルの本当の笑顔だった。
■
「本当はな、一人でやろうとしてたんだよ」
「捜査を、ですか?」
細かな仕事を割り振り終えた後、二人は食堂を出て階段を昇っていた。
目的地は三階の事件現場。死体は既に片付けられているだろうが、何かしらの痕跡が残されていないか確かめるのだ。
「あぁ、だが考え直させられた。お前らはもう、ガキじゃないってな」
「今日の先生、何だか変ですよ。悪い物でも食べたみたい」
「……かもな」
自嘲気味に笑うカエデの言葉を最後に会話が止まる。
階段の軋む音だけが周囲に響く音の全てだった。
「あの、先生?」
「何だ。不安そうなツラして」
「先生の言葉で、みんなに元気が戻りました。でも、解決できるかどうかなんて……」
「してみせるさ。知っているだろう? 統一戦争の時に俺が何と呼ばれていたか」
「《不可能を可能にする男》……」
「ああ、そうだ。俺に不可能はない」
モカの不安を遮るカエデの声音に迷いは無かった。
この男は、必ず事件を解決できると信じている。
「……《家族》を守る為ならな」
「……えっ。いま、何て?」
「別に。ほら、着いたぞ」
無愛想に呟き、カエデがドアノブに手をかける。
どうしてだろうか。純白の外套を揺らす彼の背中が妙に大きく見えた。
「もう死体は片付けられているはずだが、何を見ても驚くなよ」
犯行現場は、本来なら許可が出るまで立ち入り禁止。現在の中の様子はカエデにさえ分かっていない。
主を先頭にゆっくりとドアを押し、中へと入る。
「……どう言う、事だ?」
直後、カエデが放ったのは疑問の声だった。
「そんな、何で」
続けてモカも部屋に踏み入り、彼の放った言葉の意味を理解する。
殺害現場には、信じられない光景が広がっていた。
惨たらしい焼死体――はもう無い。
暴れまわったように散らかったテーブルや椅子――は全て元に戻されている。
炭の散った床――は太陽の光を鏡のように反射している。
丁寧に整えられたベッドシーツ。塵一つ落ちていない部屋。焦げ目一つない絨毯。
何も、おかしな所は無い。
《だからこそ異常だった》。
犯行現場の客室は、何もかもが普段の状態だったのだ。
「そんな、バカなっ。現場の保全はどうなっている」
《まるで、ここで殺人事件が起きた事など嘘のように》。
明日に、続く。
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