14・憎悪の炎と《寂寥の雨》
「く、くくっ。やはり貴様は運を使い果たしていたようだなァ! 引くよな、引くしかないよな? だが、バストの可能性は二十二.四パーセント。たった二割ではあるがなァ、次の瞬間、貴様は二割以上の確率で全てを失うんだよ!」
やはり、結界が広がった所でカエデは全ての運を使い果たしていたのだ。
十か絵札を引けばその瞬間に全てが終わる。かと言って、都合よく七から九が出る訳が無い。圧倒的にヘンリーの有利だった。
だが、それでもカエデが余裕の表情を崩す事はない。
「……過ぎたるは及ばざるがごとし、って言葉を知っているか? 古代魔法文明の、どこかの民族が使っていた言葉でな。今のお前にぴったりなんだよ」
大胆不敵、泰然自若。一切の揺らぎが感じられなかった。
「何が、何がおかしい!」
「別におかしい訳じゃない。お前は俺を限界まで追いつめてくれたんだ。だが、科学ってのはな、不可解な事象を論理で証明する事だ。そして、この世に理屈で証明できない事はない」
「……何が言いたい?」
「多少のアクシデントはあったが、《全ては俺の筋書通り》って事だ。今回の作戦。テメェがどう思ってるかは知らねぇが、俺は一つたりとも運になど頼っちゃいない。全部、理詰めで動いて来たんだぜ?」
「……ハッタリを」
「ハッタリかどうかは結果が示してくれるさ」
殺意すら混じった視線を交差させる中、カエデが外套の懐に手を突っ込む。
「ここで俺は《オプション》を宣言しよう」
オプション。プレイヤーに認められる特殊ルール。
口頭では説明していないが、事前にルールを調べてあるカエデが知っていても不思議ではない。
だが、彼が口にした《オプション》は、さらにヘンリーを混乱の渦へと叩きこむものだった。
「……《ダブル・ダウン》だ」
ダブル・ダウン。カードを一枚引く事で、倍の額を賭けるオプション。
だが、ありえない。あり得るわけがないのだ。
彼にはもう、賭けるものなど残されていないのだから。
「お前、切り札が一枚だと思っていたのか?」
そう言ってカエデが懐から取り出したのは、先程と全く同じ羊皮紙だった。
つまり、《二枚目の白紙手形》。
「正直、ここまでワケわかんねぇ積み方されたら価値なんざわからねぇが、こんなもんだろ」
さらさらとペンで金額を書き込み、テーブルの真ん中に投げつける。
正確な金額を書かない事を咎める気も起きなかった。
賭け金はとっくに互いの限界を超えているのだから。
「ほら、寄越せよ。一枚。時間が無いんだ。このままじゃ全員オダブツだぜ?」
くい、と指で合図するカエデ。まるで自分が負ける事など考えていないようだった。
――負けたら、全てが終わる。
それでも、彼はカードを配らねばならない。
――ならば、カードをすりかえるしか。
「おぉっと、俺の目の前で《手技》が通ると思うなよ。こちとら、百八十七パターンのデータが頭の中に入ってるんだ。見つけた瞬間、その腕をへし折るぜ?」
心の奥までもが見透かされているようだった。
イカサマは、通じない。通じる気がしない。
つまり、彼は何の小細工も無しにカードを渡さねばならないのだ。
震える手で、一枚。カエデの元にカードを滑らせる。
――やった!
瞬間、彼の胸に歓喜の渦が押し寄せた。
カエデに配られたカードの数字は、なんと《エース》だったのだ。
「ハハッ。はははははっ。ざ、ざまあ見ろ! 合計で十三だと? ば、馬鹿じゃないのか? 欲をかきやがって!」
倍額を賭けることができるダブル・ダウンには一つのデメリットが存在する。
一度しかカードが引けなくなるのだ。
つまり、カエデはこれ以上の数字が望めない。十三で固定されてしまった。
「喚くな。とっとと自分のカードをめくってみろよ」
だが、カエデは数字の事など全く気に留めずに言い放つ。
――なっ。
熱気の中で、背筋が凍った。
自分は、何かとんでもない事を見過ごしているのではないかと。
震える手で、一枚めくる。
ヘンリーのカードは、《6》。
「さあ、テメェの合計は十六だ。こいつがどんな意味かは分かってるよな?」
当然だ。
ブラック・ジャックの基本ルールなのだから。
《ディーラーは、合計値が十七以上になるまで何度でもドローしないといけ
ない》。
「あ……ああ……ああ」
視界が、歪む。
頭の中でわんわんと奇妙な金属音が鳴り響き、意識が混濁していく。
「さあ、早く引け。なァに。五以下を出せばテメェの勝ちだ。簡単だろう? 確率としては約三十七パーセントだ。多少分は悪いが、奇跡って程じゃないだろ?」
何だ、この余裕は。どう言うことだ。どこで間違った。
ギャラリーは、もう僅かしか残っていない。
業火はテーブルのすぐ傍まで迫り、黒い煙が容赦なく視界を曇らせる。
「……私は、奇跡など信じない」
「奇遇だな。実は、俺もなんだよ。ただし、頭に『都合の良い』が付くがな」
ポケットからハンカチを取り出し、口元へ当てる。鋼鉄の義手が熱を持ち、ハンカチを通しても火傷しそうな程の熱さになっていたが気にしている場合では無かった。カエデも同様に外套の袖で煙を遮断しようとしている。
息苦しい。だが、意識を失う訳にはいかない。
例えイカサマが暴かれ、フリーデすら失っても、目の前の男にだけは負ける訳にはいかなかった。
「私の魂を燃やす黒い炎は、こんなテントを燃やすだけでは足りないのだよ!」
人生の勝利者に何が分かる。ヘンリーが失ったものの重さが。
才ある者に何が理解できる。
理不尽な不幸に襲われた凡人の絶望が。
「……あんたがどれだけ苦しんで来たか、俺には分からない」
三人の他は片手で数えられる程度の人間しか残っていない中、カエデが小さく呟く。
「分かる訳が、無いだろう。貴様のような輩に」
「……あぁ。駄目だった。俺はあんたじゃないからな。だけど、いや、だからこそ、か」
ふと、気付く。
いつの間にか、彼の表情が変わっている事に。
不敵な笑みはなりを潜め、悲しげな瞳で見つめている事に。
「あんたは、正しいよ」
怒りも、嘲りも無い。
ただ、本心からの言葉だと理解できた。
「憎しみを洗い流せるのは、より強い憎しみだけだ。そうやってこの国は五十年もの間、涙と憎悪と死体を積み上げてきた。戦国の五十年は、そいつが正義だった」
「はんっ。五十年の戦乱を終結させた英雄として、私を止めるとでも?」
「違うよ。そんな大層なモンじゃない」
ただ、とカエデが付け加える。
「気付いているか? あんたが壊そうとしているこの国の礎は、あんた自身の涙も含まれてることに」
紅色の明かりに染まったカエデが小さな声で、それでいてはっきりと句を繋げていく。
「ヘンリー。あんたが行く道の先は、愛した者の躯の上にさらに死体を積み上げる悲しい荒野だ。あんた自身が、愛した者たちに唾を吐きかけるも同然の事をやろうとしてるんだよ」
「だから止めろとっ? それで私が心変わりを起こすとでも思っているとでも!?」
「……いいや、思ってないさ」
説得は無駄だ。そんな事は彼自身分かっていたのだろう。
「あんたは何も間違ってない。だがな、俺が今まで歩いて来た道も間違ってるとは思っちゃいない。だから、俺は俺として……この国に生きる人間、《ただのカエデ》として絶対に退く訳にはいかねぇ」
「それは、私も同じだ……!」
もう、答えは一つしか無い。
《勝った方が正しい》。この上なくシンプルなルールだ。
腹をくくり、伏せ札へと手を伸ばす。
涙が後から後から零れ出し、鼻水で顔がぐちゃぐちゃになる。
汗はとどまる事は知らず、下着どころかベストやズボンまでもを濡らしていた。
それでも、彼はカードを引かねばならない。
引かねば、今までの自分の十年を否定する事になるのだから。
「見せてやる。私の生きる意味を! 貴様から全てを奪うことで! こんな所で負ける訳にはいかないんだよ!」
勝つ。絶対に、勝つ。
強い意志とともに、叫びを上げる。
「こんな所でェェェェェェ!!!」
雄叫びと共にカードをめくると同時だった。
彼の頭に一つのフラッシュバックが走ったのは。
炎が上がった瞬間のこと。ギャラリーやボーイ。そしてヘンリーまでもが火元を見ていたあの時――
《カエデは、カードをカットしていた》。
《封魔結界》が拡張され、ボーイが燃えた瞬間。全ての視線は火元に寄せられていた。
もし、カエデが事前にカードを隠し持っていたら。
もし、入口の簡易ボディチェックを免れていたら。
もし、すり替えに成功していたら。
――なんという、男だ。
ヘンリーがカードを配る前から、勝負は決していた。
全てに気づいた時にはもう遅い。
既にカードは表に向けられていた。
結果は――
「ダイヤのキング。合計二十六でバスト。俺の、勝ちだ」
遠くなる意識の中、カエデが告げる。
気のせいだろうか。ヘンリーの顔を冷たい物が打っていた。
――雨?
確か、十年前もそうだった。
《深淵》が彼の元へやって来た時も、同じように雨が降っていた。
「少し頭を冷やしてろ。馬鹿野郎が……」
最後にヘンリー感じる事が出来たものは、苦渋に満ちたカエデの声だけだった。




