12・英雄の《猛追》
「どうした? 地下かどこかで不審者が暴れてるのか? おいおい、大丈夫なのかここの警護は」
先程走った悪寒。そしてカエデの言葉を受け、理解する。
誰かが《結界が広げた》のだ。しかも、より強化して。
「済まなかったな、モカ。心配させて。もう、大丈夫だからな」
「……先生」
まるで、既に勝負が決したかのように対面のカエデがモカへと語りかけていた。
そして、純白の外套の襟を正しながら、彼は驚くべき言葉を口にする。
「さて、それじゃあ《賭け金を上乗せさせて貰おうか》」
「なっ……!」
不可解だった。
既に全ての財を奪い、モカを担保に借金まで背負わせているのだ。
しかも、炎は徐々に広がりつつある。彼にとっても勝負どころではないはず。
「馬鹿なっ! 貴様にはもう何も残されてなど――」
「あるね!」
カエデが懐から取り出したのは、昔ながらの羊皮紙。
製紙・印刷技術が急速に発達する現代において、ほとんど目にする事が無くなったものだ。
「コイツが何だか分かるか?」
カエデが文章を指でなぞっていく。
火事の様子も気になりはしたがカエデの勢いに圧され、思わず目で追う。
何やら難解な言い回しではあったが、なんとか理解する事ができた。
どうやら、王立銀行発行の為替手形のようだ。
引き出し先は――
「国庫、だと?」
意味が分からない。
だが、何より理解不能なのは彼が国庫から金を引き出せることではない。
金額が書かれてあるべき部分が、全くの白紙であることだった。
つまり――
「《白紙の手形》だと……?」
最後に記されてあるのは、トロヴァーン・トロン・レイストール国王のサインと、王家の紋章が記された印。
つまり、カエデが賭けようとしているもの、それは――
「《引き出し無制限の、為替手形》だ。受けてくれるよな?」
「どうしてこんなものを…!」
「貰ったんだよ。とある不審者にな」
「そ、そんな馬鹿な! あり得ない! たかが一市民が――」
途中まで口にして気付く。
カエデは、ただの市民では無い。
統一戦争の英雄。国王の右腕。一時は王に次ぐ第二位の権力を持っていた伝説の男なのだから。
噂によると筆頭政務官を辞する際、王より莫大な慰労金を受け取ったと聞く。
それこそ、ホテルを一軒建てる程度では収まらない程の。
「まさか……本当に王からの……!?」
「金額は、そうだな」
カエデが懐からペンを取り出し、指を噛む。
自らの血をインクとして記された金額は、さらにヘンリーに恐怖を与えた。
何故なら――
カエデが提示した金額は、ぴったりとヘンリー達が上げてきた利益と一致していたのだから。
「良い事を教えてやろう。《知は力》だ。敵を知り、己を知れば、全てを掌握する事が出来る」
羊皮紙が激しい音と共に、テーブルに叩きつけられる。
炎は、さらにに勢いを増していた。
一部の客は既に従業員の指示に従って避難を始めている。
だが、カエデの表情には脱出する気配など微塵も感じられない。
「テーブルに載せた物は、全て換金してくれるんだろ?」
「受けれる訳が無いッ! こんなの、偽物だ!」
ヘンリーに拒否権はない。だが、受けるわけにもいかなかった。
今まで見た事も無く、聞いた事も無い品に値を付けることができる訳が無いのだ。
「ざ、残念ながら真贋の証明が出来ない以上、値を付ける事は出来ませんね!」
ここは拒否の一点張りしか無い。
ヘンリーはあくまでも《親》だ。パンクするほどの財を賭けるのは《子》の役目である。
しかも、結界を広げられた彼に《必勝法》は無い。
条件は、ほぼ五分になったのだ。
「証明すれば、受けてくれるのかね?」
ギャラリーの誰かが、太い声で質問してくる。
「も、もちろんですとも! 我がカジノのウリでございますから!」
「ならば、ワシが証明しようか」
声と共に現れたのは、大柄な男だった。
しなやかな筋肉に覆われた巨躯。
浅黒い肌に銀の髪、そして威厳のある口髭。
「ま、まさか……国王陛下!」
誰かが口にした瞬間、周囲が騒然となる。
ヘンリーの周囲だけ、炎が広がりつつある事など誰もが忘れてしまっているようだった。
「そいつは、ワシが彼に与えた物だ。紛う事無く本物だよ。それとも、ワシの言葉が証明にはならないと?」
王を名乗る男が一歩歩み寄り、ヘンリーを睨みつける。
猛禽を思わす瞳に威圧され、拒否の言葉が出ない。
必死に口をぱくつかせ、出てきたのは――
「い、いえ。とんでもございません」
情けない台詞だけだった。
「ならば良し。全てを賭けた大勝負、見せて貰おうか」
「で、ですが。今は火事でして……とてもではありませんがゲームどころでは――」
「おいおい、何バカな事を言ってんだ?」
ヘンリーの声を遮ったのは、カエデだ。
彼は挑発するように、入口で配られている冊子を開いてヘンリーに告げていく。
「一度テーブルに置かれたら、ワンゲーム終わるまで何が起ころうと中断は無い。ここのルールだろうが。それともお前は、テーブルをひっくり返す覚悟があるのか?」
ちらり、とカエデが国王に目を向ける。
大仰に頷く国王。
どうやら、後に退けそうにはなかった。
――早く、ゲームを終わらせなければ。
どこで歯車が狂ったのだろうか。
どうして必勝の策が破られたと言うのだろうか。
既に、何故国王がこんな場所にいるかなど、考えるゆとりすらない。
彼に出来る事はただ一つ。場の流れに身を任せる事だけだった。
《今まで彼が破滅させてきた人間達と同じように》。
「で、ではカードを――」
「そこのギャラリーども!」
ヘンリーがデックを手に取ろうとした瞬間、カエデが再び遮った。
「なあ、俺に乗ってみないか?」
カエデが振り返り、ギャラリーたちをじっと見回す。
異様な空気に呑まれていたのか、着々と広がりつつある炎の中、カエデの周囲の客たちだけは未だに逃げていなかった。
「……な、何を言っているんだ? ば、馬鹿なのか?」
既に炎はテントの三割近くを覆っている。
このままゲームを続ければ焼け死ぬ事は間違いない。
だと言うのに、この男は何をしようとしているのか。
《深淵の智将》が数多くの伝説を築いてきた事は、ヘンリーが誰よりも知っている。かと言って、今までのカエデの負けっぷりを見て乗る者がいる訳が無い。
「おいおい、なァにビビってやがる。お前らだって俺の伝説は知っているだろう? 俺は、常に逆境から這い上がってきた」
ヘンリーの頭の中に、幾つもの逸話がよぎる。
二万の軍勢にたった百人で撤退戦を行い、王の命を救った《翼の奇跡》。
四方を囲まれながらも、奇策の連続で全てを打ち破った《双翼の業火》。
どれもが絶対的絶望からの奇跡の逆転。数え上げればきりがないほどだ。
「そして俺は、常に勝利してきた。お前らは《深淵の智将》を信じられないのか?」
彼は言外に言っている。
カエデを疑う事は、目の前の国王をも疑うことだ、と。
今の彼の眼は、先程までの負け犬の物ではない。
幾多の戦を勝ち抜き、国家平定後も並いる貴族と政の世界で戦いぬいて来た《英雄》の光を宿していた。
「必ず勝つギャンブルなんて存在しない。かつて英雄と呼ばれた俺ですら、いくつもの敗戦を経験している。なのに、今までこの腐れ外道どもは、常に勝ち続けてきた。それも、鼻歌交じりにな。どうしてこいつらは勝ってた思う?」
とうとうカエデは立ち上がり、ギャラリーたちに体を向け叫んだ。
「……《イカサマだよ! 魔術を使った》、な」
ヘンリーにとって致命的な、一言を。




