6・全てを失った者の《末路》
「おや、どうなさいました?」
事もなげな口調でヘンリーが問いかけてくる。
だが、カエデは唇を震わせるばかりで何も答えることが出来ない。
当然だ。
何故なら、《カエデは全ての黄金を失っていたのだから》。
どうして負けたのか、モカにはさっぱり分からない。
勝っては負け、負けては勝ちを繰り返している内に、徐々に徐々に資金が失われていったのだ。
気付けば、彼の手持ちは――ゼロ。
「賭け金が無くなったようですね。お客様、如何なさいますか?」
相変わらずのにこやかな顔で、ヘンリーが口にする。
フランシスカからの連絡は、未だ無かった。
「……まだ、だ」
吐息のような声をカエデが吐きだし、床のケースを引っ掴んだ。
二重底のケースを開きひっくり返すと、ボードに銀貨の山が築かれていく。
モカの知らない金だった。
だが、すぐに目の前の銀貨の正体に思い至る。
「それ、もしかして、金庫のお金じゃ……?」
カエデのポケットマネーはそれほど多くはない。本や奇妙な発明の材料以外に彼が欲しがるものはなく、必要以上に受け取ろうとしないからだ。
「ちょっと借りただけだ」
「借りたって……待って下さいよ! お店のお金ですよ!? どう言うつもりです!?」
あっさりと言い放たれた言葉にモカの頬が紅潮する。
金庫の金はフロルの運営資金だ。
モカ達の給料はもちろん、食材の買い入れ費や消耗品の補充その他など、当座の営業に必要なものである。
たかがギャンブルに使いこんで良いものでは無かった。
しかも、それだけでは終わらなかった。
「まだだ、まだあるぜ!」
そう言ってカエデが取り出したのは数枚の書類。
「せ、先生っ。それは! それだけはダメです!」
「黙れ。もう、後には退けねぇんだよ」
彼が取り出したのはホテルの権利書と為替手形。
為替手形とは、王立銀行で貨幣と引き換えに出来る、いわゆる預け金である。
運営資金とは別に三年間溜めてきた、モカ達の努力の結晶。
溜めた金でフロルの事業を拡張し、スラムの救済事業や石の家の子どもたちを雇い入れる。いわば夢の為の資金だ。
さすがに看過する訳にはいかなかった。
全財産と、フロルの権利書。
つまり、この男は――
《家族》を賭けようと言っているのだ。
「ボーイ。計算と換金を」
「止めて、止めて下さい! 勝ち目なんかないんですよ!?」
既に、カエデは暴走していた。先程までの計算高さはどこにもない。
充血した瞳。止めどなく汗が噴き出す肌。震える体。
明らかに正気を失った様子に、モカは決意する。
「……先生。私を見て下さい!」
「何だ? 今、俺は――」
瞬間、乾いた音が周囲に響き渡った。
モカが、カエデの頬を思い切りひっぱたいたのだ。
「目は覚めましたか?」
荒い息でモカが告げると、カエデが小さく微笑み返した。
「……ああ。心配かけたな」
どうやら、彼女の気持ちは通じたようだ。確かに王から借り受けた資金は全て失った。だが、どうしてカエデまでもが身を切る必要があるのだ。フランシスカの動きが分からない以上、今は出直すしかない。
安心し、息を吐くモカ。
だが――
「大丈夫だ。必ず勝つ。俺は、正気に戻った」
カエデは、まるで分かっていなかった。
そのままヘンリーへと視線を戻し、告げる。
「これで、いくらになる?」
「十本と言ったところでしょうか。端数はお返しいたします」
――狂ってる。
カエデの行動は、計画にはない。
冷静でいなければならない彼こそが、最も熱くなっていた。
――これが、ギャンブル?
恐ろしかった。人を狂わす魔性の空気が。
吐き気さえ覚えた。見知った人間が僅か数時間で変わり果ててしまった事が。
「さあ、ゲーム続行だ。大丈夫だ、モカ。勝てばいいんだよ。勝てばなァ」
カエデがかすれた声で告げ、延べ棒をテーブルへと載せる。
取りつかれたように放たれた彼の言葉は、モカの知るカエデでは無い。
もはや、別の生き物のようだった。
――そして、三十分が経った頃。
「おや、また勝ってしまいました。如何なさいますか?」
「どうするって……!」
モカの口から小さな悲鳴が漏れる。
どうしようも無い事は明白だ。
二人は《全て》を失っていたのだから。
今度は、一切の容赦のない敗北。最初から、絞り取る気で相手は仕掛けてきた。
当然、モカ達には相手がどのようなイカサマをしているのか、影さえも見えない。
どだい勝ち目のない勝負だったのだ。
相手はイカサマを使っており、モカ達に切り札はなく、頼みの綱のフランシスカからも連絡がない。
「もう私達には何も残ってません!!」
情けなかった。一瞬にして全てを失ってしまった自らの主が。
あれほど馬鹿にしていたギャンブルで身を滅ぼした英雄の姿が。
そして、止めることができなかった自分が。
己の愚かさを後悔する。
モカにカエデを責める権利はない。
彼女もまた、ギャンブルの熱に当てられていたのだから。
全てを失ってようやく気づいた。
数多くの奇跡を起こして来たカエデならばと、根拠のない期待をしていた自分自身に。
「そんな、馬鹿な。あり得ない。確率的に、あり得ない」
カエデが赤くなったり青くなったりしながら何かをぶつぶつ呟いている。
既に、深淵の智将の面影どころか、いつもの不遜な姿さえどこかにかき消えていた。
「もう、賭ける物はありません。帰りましょう、先生。私達は、負けたんです」
溢れそうになる涙を必死に堪える。
泣く訳にはいかなかった。泣いてしまえば、気持ちまで負けてしまう。惨めな思いが、さらに彼女を暗闇に突き落としてしまう。
どうやってスタッフに説明するべきか。新しいオーナーはモカ達を引き続き雇うのか。もし、入れ替えが起きたら《家族》達は……
どす黒い想像ばかりが頭を巡る。
そして、カエデはどうなるのか。
フランシスカに焼き尽くされた野盗の姿が、そして賭博村の外周で緩やかな終わりに身を委ねる浮浪者たちの姿が浮かぶ。
「いえいえ。まだ取り返す手段はありますよ」
そんなモカの心の内を見透かしたかのように、ヘンリーが一枚の紙を取り出した。
「これは……借用書じゃないですか!」
「こちらにサインを頂ければ、多少ならご用立てできますが?」
「駄目に決まってま――!」
「いいぜ。やってやろうじゃねぇか」
叫び、拒否しようとするだったが、カエデによって口元を押さえられてしまう。
「……っ!」
口元を抑える手は、恐ろしいほどに冷たく、そしてじっとりと湿っていた。
荒い息で答えるカエデに対し、余裕綽々のヘンリー。
奪われる者と、奪う者。
二人の差は明確だった。
「ただし、先程までのようにちまちま賭けられてはギャラリーの皆さんの興がそがれます。一発勝負、と言う事でしたらインゴットを十本ご用立ていたしましょう」
「構わ……ない!」
「先生!? 何言ってるんですか! どうしちゃったんですか!?」
腕を引き剥がしたモカが悲鳴を上げた。
既に、作戦は破綻している。
今までは最低額で賭けていたからこそ時間を稼ぐことができたのだ。
だが、次は一度で勝負が決する。
どんなに粘ろうとも五分も持たないだろう。そもそも、今のカエデに時間を引き延ばす精神的余裕があるとは思えない。
「それに……例え勝っても、今までの負け分には全然届かないんですよ!?」
当然のことだが、資金を借り受けたとしても、全てを取り戻すには七倍にしなければならない。
不可能なことは、子どもでも理解できる。
「確かに、その通りですね。では、こう致しましょうか」
手を顎に当て、考える素振りを見せるヘンリー。
やがて、何か名案を思い付いたかのように手を打つと、彼が初めて笑顔以外の表情を浮かべた。
うっすらと開いた瞳の奥に光るのは、歓喜と興奮の色。
先程までの笑顔ではない。だが、間違いなく笑っている。
そして、裂けそうなほどに唇を吊り上げ――
ヘンリーは信じられない言葉を口にした。
「カエデ様。《あなたの右腕を賭けていただきたい》」




