5・その《ゲーム》の名は
「ルールの前に、まずは自己紹介を致しましょう。私の名はヘンリー・オルドレン。このカジノのオーナーでございます」
「カエデだ。家名は無い」
ケースを一度床へと下ろし、互いに名乗る。
ディーラーとカエデは、互いに笑顔を向け合っていた。ただし、《何を考えているのか分からない張りついた笑み》と《傲慢この上ない不敵な笑顔》だが。
「存じ上げておりますよ。《深淵の智将》の勇名は。それではルール説明と参りましょうか」
ヘンリーはかなり肝の据わった人物に見えた。カエデの挑発的な視線に一切の揺らぎを見せず、張りついた笑顔のまま言葉を紡いでいく。
「ゲームの名は、《ブラック・ジャック》」
すっと左手を伸ばし、カードを指差すヘンリー。
「この上なくシンプルなゲームです」
「いちいち演技臭い男だ。悪いが、早く説明してくれないか?」
自分の事を完全に棚上げしているカエデが告げると、ヘンリーはゆっくりと目を閉じ息を吐いた後、説明を再開した。
「《引いたカードの合計の数字が大きい方が勝利》。《ただし二十一を越えてはいけません》。主なルールはこれだけです。簡単でしょう?」
「なるほど、な。確かに分かりやすい。カードを引くのに金は必要なのか?」
「いえ、不要です。プレイヤーは二十一を越えない限り、最初に配られる二枚に加えて好きなだけドロー出来ます。ただし、《ディーラーは数字の合計が十六以下の場合、十七以上になるまでドローしなければなりません》」
「まあ、俺には関係ないな」
「その通りです。後は騎士や女王、王が描かれた《絵札は十として計算する》と言う所ですね。後はプレイしながらご説明しましょう」
――酷い説明。
内心でモカが呟く。
ヘンリーは、冊子にも書いてある数多くの特殊ルールを完全に省いていた。
エースは一とも十一とも数えられる事も、配当が五割増しになるブラック・ジャックも、倍賭けを認めるダブルダウンも、スプリットもサレンダーも何もかもだ。
――とは言っても、こっちは全部知ってるんですけどね。
笑みがこぼれないように必死に堪える。顔に出やすいのは彼女の悪い癖だった。
だが、我慢しろと言う方が難しいだろう。
何故なら、カエデは《必勝法》を携えてこのテーブルに着いたのだから。
「それでは、賭け金はいかがなさいますか? こちらのテーブルは当カジノ最大の《下限は金一キロ、上限はなし》となっていますが」
「……決まっているだろう? 全部だ」
事もなげにカエデが言い放つ。
瞬間、周囲のギャラリーがどよめきが走った。
全部、つまり五十キロの純金を一度で賭けようというのだ。
想像できるだろうか。
カジノのスタッフにより真贋を確認されながら、うず高く積まれて行く金の延べ棒の様子を。
少なくとも、モカには出来ない。
今、目の前に存在している事すら夢にさえ思える。
「よろしいのですか? 一度テーブルに乗せたら後には引けませんよ?」
冊子にも書いてあったが、賭ける物をテーブルに置いた場合、何があろうともワンゲーム終わるまでキャンセルは出来ない。
余りに無謀な行為に感じたのだろう。ヘンリーが僅かに笑顔を崩し、眉をひそめる。
「構わないさ。普通にやるのもつまらないだろう?」
やはりカエデは不敵な笑みを崩さない。
相手からしてみれば不気味な事この上ないだろう。
「一応聞いておくが、俺が勝ったら倍になるんだよな?」
「はい。勿論でございますとも。賭け金は以上で?」
「ああ。今のところはな」
「それでは、ゲーム・スタートと参りましょうか」
言うが早いか、ヘンリーが捨て札を合わせたカードを全て混ぜ合わせ、シャッフルを始める。
――えっ?
思わず、モカの喉の奥から声を漏れかけた。
まるで、彼女達の思惑が見透かされているように感じたのだ。
「どうされたのですか? 《私はただ、カードをシャッフルしているだけですよ》」
モカの僅かな表情の変化に気づかれたのだろうか。わざわざシャッフルを強調してヘンリーが声をかけてくる。
「別に、《カウンティング》を行なっている訳ではないのだから、構わないでしょう?」
「《カウンティング》? 何だそれは」
戦慄するモカをよそに、平然と惚けるカエデ。彼には策の一つが破られた事など気にもかけていないようだった。
「ちょっとした《必勝法》です。発覚次第退場していただいておりますがね。それではどうぞ、カットを」
全てを見透かしているぞとでも言いたげなヘンリーがをカエデへと差しだす。
「カットってのは?」
「当カジノはイカサマが無い健全運営がモットーでして。お客様にもカードをシャッフルする権利があるのです」
ヘンリーに促され、言われるままにカエデはデックへと手を伸ばし――
《途中で引っ込めた》。
「どうされました?」
「あんたがカードをシャッフルする動きが、どうも奇妙でね。特に右手だ。明らかに不自然な動きをしている」
動揺のせいでモカは気付かなかったが、思い返してみると確かに不自然だった。
流れるような動きの左手に対して、右手はぎこちなく震えていたのだ。
「……その事ですか」
指摘されたヘンリーが慣れた様子で右手の手袋を外すし、シャツをまくりあげる。
彼の曝け出された右手を見た瞬間、モカの呼吸が止まりそうになった。
「統一戦争での名誉の負傷です」
ヘンリーの右手は、肘から下が鋼鉄で出来ていたのだ。
煌びやかな周囲の明かりを吸い込むかのような、黒金で出来た武骨なフレーム。
一目で分かる。義手だ。
「一応、指は五本ありますが、出来るのは物を掴むことくらいです。何も仕掛けなどしていませんよ。確認なさいますか?」
何らかのカラクリ仕掛けがされているのだろうか。異形の指を軋む音と共に開閉させながら、ヘンリーが問う。
モカは首を横にぶんぶんと振り回すしか出来なかったが、カエデはなお冷静だった。
「失礼な質問をしたな」
「いえ、慣れていますから」
一礼と共にヘンリーが手袋を義手へと重ねようとする。
だが。
「失礼を承知で言わせてもらおう。調べさせてくれ、と」
驚いたのはモカだった。
カエデの奇行にではない。彼の行為の《正しさ》にだ。
普通の人間ならば、異形の義手を見せつけられれば尻込みし、深くを追及できないだろう。
しかし、カエデは違う。
深く追求できないからこそ、逆手にとって何らかのトリックを仕込んでいる可能性を考えていたのだ。
「……良く出来ているな。肘の力の入れ具合で開閉するのか」
「ええ。先程も言いましたが、カードデックを握る程度にしか使えません。それでも重宝していますよ」
外された義手を受け取り検分するカエデ。舐めるように見回し弄ぶが、どうやらおかしな仕掛けは見つけられなかったようだ。
「悪かったな。もういい」
「お気遣いなく。我がカジノは公平こそがモットーですから」
返された義手を肘に嵌め、数度ばかり動作を確かめると、ヘンリーが微笑んだ。
「それで、カットだったな」
カエデが一番上の数枚のカードを真ん中へと差し込む。これだけでカットは終了だ。
たかだか数分間のやり取りではあったが、一つだけ明らかな事があった。
《二人とも、只者ではない》。
まさに双方驚くべき胆力といえよう。
「さあ、始めてくれ」
「……畏まりました」
カエデから山札を返されたヘンリーが、一礼と共に高らかに宣言する。
「それでは、お配りしましょう。以降はカードに触れないようお願いいたします」
瞬間、今までざわついていたギャラリーの口が閉ざされる。
静まるのも当然だ。
普通の人間なら一生目にする事もない程の大金が動く《ゲーム》が始まったのだから。
流れるような手付きでカードが配られて行く。
そして、カエデの元に配られた二枚のカードは――
「俺の合計は……十か。だが、どうしてアンタの札だけ、一枚伏せてあるんだ?」
「プレイヤーは、この開かれた一枚の札から今後の指針を考えるのですよ。私がカードを開くのは最後です。今回は絵札が一枚ですので、かなり良い手ですよ」
「なるほど、な。一枚寄越せ」
「畏まりました。ヒットですね」
配られたカードに描かれた数字は、《ハートの2》。合計で十二にしかならない。
「チッ。もう、一枚だ」
苛立ち交じりの声と同時に、さらにカードが渡される。
《スペードの6》。
「如何なさいますか? 現在合計は十八。そろそろ終了したほうが宜しいかと思いますが」
先程までと変わらぬ笑顔でヘンリーが問う。
ルールでは、二十一を越えると――つまり、《4》以上の札が出ればその時点で敗北だ。
確率的に考えれば、どう考えてもここで止める方が正解。
だが、カエデはモカの予想と全く逆の、余りにも無謀な行為に出た。
「……も、もう、一枚だ」
額から汗を流し、絞り出すような声で告げる。
「おやおや。随分と強気だ。ほう!」
ヘンリーが驚嘆の声を漏らすのも無理はない。カードの数字は、なんと《2》だったのだ。
これで合計は、二十。
「ここで終わりだ」
息を吐き出しながら、宣言する。
カエデの顔中から、汗がほとばしっていた。
当然だ。いくら他人の金だからと言っても、金額が尋常ではない。
テーブルの上に積まれた黄金は、フロルのスタッフ全員が一生働かずに暮らせる価値がある。
逆を言えば、人の人生を狂わすにも十分だと言う事だ。
脇で見ているモカでさえ、先程からずっと鳥肌が立ちっぱなしだった。
「それでは、次は私の番ですね」
ゆっくりと口にした後、伏せられたカードを開かれる。
「おやおや、これは」
「……なっ!」
「そん、な」
安心したのもつかの間。すぐさまモカ達が驚きの声を漏らす。
相手のカードが、絵札だったのだ。
絵札が二枚。つまり、《ヘンリーの合計値は二十》。
「おや、引き分けです。危ない所でしたね。最後の一枚、素晴らしい判断でしたよ。さすが深淵の智将と言ったところでしょうか」
引き分け。損失は無し。
あまりの出来事に、モカはただ呆然とすることしか出来なかった。
――《本当に、こうなるなんて》。
そう。
全ては《カエデの推測通りだった》のだ。
馬車の中で主が言っていた言葉を思い出す。
『俺は最初に全額をベットする。だが恐らく、引き分けになるだろうよ』
全て。彼の予言通り。
『相手の目的は、権力者や発言力がある人間を飼い殺す事だ。今は隠居の身とは言え、《深淵の智将》が健在なのは先日の冤罪事件で証明されている。そんな俺が最初のワンプレイで全財産をスッてみろ。奴らは金が手に入りはするが、俺は手に入らない。だが、勝たせてしまってもすぐに帰ってしまうかもしれない』
だからこその、引き分け。
今のワンプレイは、相手が意図的に数字を操作できるかを確認する為でもあったのだ。
『相手は間違いなく《深淵》の知識を持っている。トランプと呼ばれるカードを扱う遊戯がそうだ。恐らく、必勝法であるカウンティングも対策されるだろう。そもそも、イカサマの前では確率論など意味を為さないしな』
何もかもがカエデの思う通りに進んでいる。
モカはただ、彼の深い読みに感服することしか出来ない。
「畜生、引き分けか。仕方ない、次は手堅くいかせてもらうぜ」
心底悔しそうにカエデが首を振る。
モカでさえ、彼の声音から演技臭さを感じる事は出来ない。と、言うより彼の様子が普段から芝居臭いだけなのだが。
「……ボーイ。お客様にボードをお持ちなさい」
ヘンリーが軽く手を叩くと、背後に佇んでいたボーイの男性達が小さなテーブルを運んできた。恐らく、賭けない黄金はここに置けという事なのだろう。
「賭けるのは一本で良い。あとは全部引っ込めてくれ」
銅貨を数枚渡されると、男たちが無言で延べ棒をボードへと積んでいく。
「なかなか面白いじゃないか」
「でしょう? 私は、このゲームが何よりも気に入っているのです」
やがて作業が終わると、ボーイたちは一礼し、ヘンリーの後ろへと戻って行った。
そのまま彼らは直立姿勢にて待機する。
「さあ、準備は整った。ゲーム再開と行こうか」
鋭い瞳で睨みつけ、自信満々に笑みを浮かべるカエデ。
笑顔のまま受けるヘンリー。
モカは再び師の言葉を思い浮かべる。
『そこまで分かれば後は手持ちの金を使って時間を稼ぐ。フランが《仕掛け》をするまでの時間をな』
そう。
《フランシスカが退場したのはギャグやドジではない》。
彼女がシャンパングラスを冷やそうと魔術を使った事も。
その結果燃えてしまった事も。
叩きだされた事も。
全て、計画通り。
何もかもが、カエデの思惑の内だったのだ。
だが――!
モカにとって、そして恐らくカエデにとっても予想外の事態が発生する。
――二時間後。
「おや、どうなさいました?」
事もなげな口調でヘンリーが問いかけてくる。
だが、カエデは唇を震わせるばかりで何も答えることが出来ない。
当然だ。
何故なら、《カエデは全ての黄金を失っていたのだから》。
どうして負けたのか、モカにはさっぱり分からない。
勝っては負け、負けては勝ちを繰り返している内に、徐々に徐々に資金が失われていったのだ。
気付けば、彼の手持ちは――ゼロ。
「賭け金が無くなったようですね。お客様、如何なさいますか?」
相変わらずのにこやかな顔で、ヘンリーが口にする。
フランシスカからの連絡は、未だ無かった。




