1・《ホテル・フロル》のポンコツオーナー
はじめましての方は、はじめまして。
そしてお久しぶりの方はお待たせいたしました。
ファンタジーとミステリと掛け合い漫才を悪魔合体したら変なものが出来あがった次第です。どうぞお楽しみください。
少女が一人、石造りの廊下を歩いている。
隅々まで清掃の行き届いた石畳を、強く踏みしめ、ずんずんと。
年の頃は十代の後半。
モノトーンのエプロンドレス。よく手入れされた栗色の長い髪。この国では珍しい、陶磁のように白い肌。
何よりも特徴的なのは、彼女の笑顔だろう。
窓から差し込む朝の日差しが、彼女の柔らかで魅力的な笑顔を照らして際立たせている。
だが、見る者が見ればすぐに気付くはずだ。
彼女の内心は、怒りに満ち溢れていると。
笑顔は仮面でしかないのだと。
一つの扉の前で、ようやく彼女は足音を止める。
《オーナー室》。
彼女たちの雇い主であり、《ホテル・フロル》のオーナーである男の私室である。
「モカです。起きてますか?」
少女――モカが静かにノックをしてみるが、反応は無い。いつもの事だ。
さらにノックをしてみるが、やはり無反応。もちろん、いつもの事である。
「あんのクソオーナー」
不穏な言葉と共にポケットから合鍵を取り出して、差し込む。
「入りますよー。って言うか早く起きて下さい。こっちはクソ忙しい時間を無理矢理割いて起こしに来てあげ……」
乱暴にドアを開けた瞬間、モカの言葉が止まった。
目の前に広がる異様な光景を見てしまったせいで。
部屋の中でオーナーが死んでいた――訳ではない。
彼は、いつものようにベッドでぐっすりと眠っている。
壁一面の本棚も、頑丈さだけが取り柄の執務机も、何もかも変わりは無い。
ただ、たった一つだけ《異常》が存在していたのだ。
《天井に、槍がぶら下がっていた》。
それも安らかな寝息を立てている男の真上で、だ。
――ぷちん。
「えっ?」
彼女が驚くのも無理はない。
槍を吊るしていた糸が、軽い音と共に千切れたのだ。
当然、槍は真下で寝ている男の元へと落下する。
その瞬間だった。
ほんの今まで寝息を立てていた男の瞳がぱちりと開き、驚くべき俊敏さでベッドから飛び上がる。
直後、無人のベッドに突き刺さる槍。部屋中に響く重い音。
羽毛が舞い、槍の柄だけが静かに揺れる。
モカは、口を開けたまま呆然とするしか出来ない。
そんな彼女に向かって、男が口を開いた。
口の端を歪め、不敵な笑みを浮かべ、芝居がかった大仰な口調で。
「水時計の砂が落ち切った時に槍がベッドに落ちる。俺はこれを目覚まし時計と名付けた」
なるほど確かにベッドの脇は水浸しな上、何やらよく分からない天秤のような器具も転がっている。
恐らく、彼お手製の《発明》なのだろう。
深く息を吸い、そして吐く。
全てを理解したモカが取る行動は一つだった。
「先生?」
「どうした、我が秘書よ」
静かにドアを閉め、笑顔のまま歩み寄るモカ。抱擁力たっぷりに両手を広げる男。
そんな男に向けて、彼女は――
「せいッ!」「へブぅっ!」
爪先を叩きこんだ。
腹部の一番柔らかい場所に。木靴で。一切の手加減なしに。
「な、何をする。こいつがあれば、この世から寝坊と遅刻が消え去――」
「永遠の眠りにつくわっ!」
「はっ!」
たった今気付いたかのように男の眼が見開かれる。
「ふむ。それは盲点だったな」
「むしろ見えてる部分が少ないですよね?」
腹を抑えて這いつくばる男に向け、笑顔のまま冷たく言い放つ。
認めたくない事実ではあるが、この男こそがモカの雇い主。
《ホテル・フロル》のオーナーであり、ついでに学問の師でもある。
男の名は、カエデ。
ぼさぼさの黒髪。どこかやる気の無い同色の瞳。病的なまでに青白い肌。風が吹けば折れてしまいそうなほどに細長い体躯。
ホテルのオーナーと言うよりは、入院患者だ。
年齢は二十の半ばらしいが、どうにも幼く見えるのは彼の普段の行いのせいだろう。
「とにかく、早く支度をして下さい。お客さん、起きてきちゃいますよ」
「……呼吸が苦しくて動けないんだが」
「気合で起きて下さい。そもそも、先生はオーナーとしての自覚が無さ過ぎます。先生がもうちょっと本気を出せばこのホテルだって――」
モカには、この世でどうしても理解できない事が二つだけある。
まずは一つ、どうしてカエデがホテルの仕事をしないのか。
そしてもう一つ、彼の経歴である。
「《英雄》が出迎えてくれるホテルなんて、ものすごいウリなんですから。先生がもうちょっと現場に顔を出してお客さんに愛想を振りまくだけで……って、人の話も聞かずに何してるんです?」
「ん? 見れば分かるだろう。読書だ」
半眼で責め立てるモカの視線を意に介さず、カエデが爽やかに表紙を掲げる。
どう言う訳か、彼は椅子に座り、優雅なポーズで革張りの本を開いていた。
しかも、いつの間にか着替えまで済ませており、室内だと言うのにトレードマークである白い麻の外套まで羽織っている。
「なるほど。読書ですか」
「その通りだ。知は力だ。いつも言っていぎゃああああああ!」
曇りの無い笑顔を向けるカエデの頭を鷲掴みにし、吊り上げる。
このボンクラがほんの三年前まで政府高官だった事が彼女には信じられなかった。
それどころか、十年前の戦争においてこの穀潰しは英雄・勇者とさえ呼ばれていたのだ。
だからこそ、今の彼の様子に頭を抱えざるを得ない。
はっきり言って、腐ったミルクを拭いた雑巾の方が役に立つレベルである。
――ああ、神様。どうしたらこの駄目人間を更生させられるのでしょうか。
嘆息してはみるが何も変わらない。現実は非情だった。
「もう良いですから早く下に降りて下さい。先生の顔を見たいってだけで宿泊してるお客様もいるんですから」
掴み上げた頭部を放し、告げる。
「分かった。分かったから本を返してくれ! まだ途中までしか読んでいないんだ」
「ご飯を食べたら返してあげますよ」
エプロンのポケットに没収した本をしまいながら投げやりな返事をする。
『貴族が教える平民の操り方~初級編~』と書かれていたが、一体何に使うのだろうか。彼の考える事は本当に理解できない。
「ほら、早く出て下さい」
「お前、俺の扱いがぞんざい過ぎないか? 昔はもうちょっと、こう……」
ドアを開いて「しっしっ」と促すモカに、カエデが不満そうに呟く。
これが、彼女の日常。恐らく明日も同じだ。ポンコツオーナーを叩き起こし、部屋から引きずり出して仕事をさせる。
――私の仕事って、子守だったかな。
少しばかり憂鬱になり、溜息をついた瞬間。
「きゃあああああああああああああっ!」
ホテル中に響き渡らんばかりの悲鳴が空気を震わせた。
「な、何ですかっ!?」
「上だ。行くぞ」
口元をにやりと歪め、飛び出すカエデ。
先程までの様子が嘘のような機敏さだった。
「走らないで下さいってば! 本当に子どもなんだから……」
呆れつつも、モカもカエデの後を追う。
トラブルが起きたのならば把握しておかなければならない。彼女は、実質上の責任者である《主任》の肩書を持つのだから。
――ううん。それだけじゃない。
モカにとって、ホテルの従業員は家族なのだ。そこに比喩は無い。
モカをはじめとした従業員十五名は、同じ施設で育った血の繋がらないきょうだいである。
戦争で親を亡くした彼女たちの居場所は《ホテル・フロル》だけだ。
フロルで起きた問題は、モカの問題でもある。だからこそ気が気では無かった。
廊下を走り、階段を駆けあがる。一階から二階、二階から三階へと。
最上階である三階。そこではある異変が起きていた。
階段傍の客室前に人が集まっている。
人数はそれほど多くない。
だが、気になる事があった。
部下であり妹分でもある従業員のマリアが尻もちをついて震えていたのだ。
「おいマリア。何があった」
カエデが問うが、マリアは深いダークブラウンのポニーテールを揺らし、首を横に振るばかりで何も口にしない。
否、言葉に出来ないようだった。
マリアの視線は、動かない。ずっと目の前のドアを見つめたままだ。
答えが無い事に業を煮やしたカエデが一つ舌打ちをし、客室へと飛び込んでいく。
「ちょっと、勝手にお客様の部屋に……って、え?」
主を追いかけ、部屋の中に入った瞬間、モカの思考が停止した。
先程のマリアとまったく同じように。
何故なら――
《人が、焼け死んでいたのだから》。
まず最初に感じたのは、異臭。
失敗した肉料理。焦げ臭さと香ばしさの入り混じった臭い。
そして、次に飛び込んできたのが、死体の姿。
最初は、モカ自身何が何だか分からなかった。
死体を見た事が無い訳ではない。今は太平とはいえ、彼女が生まれたのは戦乱の時代なのだ。
それでもなお、眼下の死体は異様だった。
張りついた瞼。潰れた鼻。二度と開く事の無い口。
皮膚は焼け焦げ、熱で凝固した筋肉が露出している。
毛髪は全て塵となり、頭部からは頭蓋が露出している。
紛う事なき、焼死体だった。
ホテルが石造りの為か、延焼の痕が見受けられないのが不幸中の幸いだったが、今のモカに安堵する余裕などは無かった。。
「なんで、どう……して?」
思考が定まらない。震えが、動悸が止まらない。
数えきれないほどの疑問が沸き上がり、そして泡のように消えていく。
しかし、彼女はまだ知らなかった。
この異様な《殺人事件》が、これから彼女たち《ホテル・フロル》を襲う危機の幕開けでしか無い事を。
次回更新は今夜0時ごろを予定しています。
書き溜めはたっぷりあるのでご安心してお楽しみください。