8
霞がかった世界で、少年はきょろきょろと辺りをうかがっていた。
目に映るのは、ピンクの塗装が剥げたすべり台、だだっぴろい砂場の横にぽつんと佇むささくれだったベンチ、風に吹かれてぎしぎしと軋んだ音をたてるブランコ。
しかし、探しているものは少年の視界に入ってこない。
少年はベンチの下を覗き込み、砂場の中をさぐり、すべり台の裏を探した。公園の周りをかこむ茂みの中も探した。少し離れた公衆トイレの中も、鼻をつまみながら探した。
やはり、見つからない。
「おーい、どこにいるんだーい。」
呼びかけてみるが、返事はない。当たり前だ。
もう一度似たようなところを探し歩く。
それでも、見つからない。
無駄だとわかっていながら、もう一度声をかける。
「おーい、どこにいるんだーい。」
またしても、返事はない。
静寂が訪れた。
少年は微動だにせず、ただそこにいた。
しばらくのちに、遠くの方で、かさり、と一つ音がした。
湿気でいつもよりまとまらない髪を梳き、薄手のカーディガンを羽織り、ライトブルーのリボンのついた靴をはき、扉を開ける。そういえばラジオで雨が降ると予報が出ていたなと思い出し、紺の傘を傘立てから引っこ抜いた。
束の間曇天を見上げる。
「アイリオーゼ、どこに行くの?」
出て行こうとすると呼び止められ、アイリオーゼは振り向いた。
「兄さんとこの交番だよ。クッキー焼いたから持って行こうと思って。」
そう言うと、母は「あらそうなの、ハルもきっと喜ぶわ。」と笑顔になった。
「うん、そうだね。」
アイリオーゼも笑顔でこたえる。
「でもね、アイリオーゼ。」
笑顔がふいと曇って、母は心配そうな顔をした。
「あなた最近、ハルたちと一緒に事件の操作をしているのでしょう?私、心配だわ。…また、また、あなたがあんな目に遭うのかと思うと、私は…。」
うっすらと涙を浮かべながらそう言う母に申し訳なく思いながらも、アイリオーゼは笑顔をつくって、「心配しすぎだよ、母さん。大丈夫。きっともうあんなことは起こらないから。」と母を慰めた。
「…クッキー冷めちゃうし、そろそろ行って来るね。」
「そうね…、気をつけていってらっしゃいね。」
やはりまだ心配そうな目をする母に「うん、行ってきます。」とアイリオーゼは元気に返事をした。
アイリオーゼが門を曲がるまで、じっと門前に立ってアイリオーゼを見送っている母が、いつもより少し老けて見えた。
門を曲がって数十メートル、小さな交番に辿り着いた。
「兄さん?」
誰もいない薄暗い部屋に呼びかける。
もちろん返事はなく、たまにやわらかく吹く風に新聞紙がかさかさと応えるだけで、アイリオーゼは一人ハルがいるはずの机にゆっくりと手をついた。
まだ温かいコーヒー、めくりっぱなしの新聞紙、コードにつながってぶら下がり揺れている受話器。
アイリオーゼは黙って丸椅子に座りこみ、持ってきた焼きたてのクッキーを指先でしばらくもてあそんだ。
周りを見渡してみてもメモの一つもない。
アイリオーゼは、やはり黙ったまま、くるくると丸椅子に回りながらクッキーをつまみ始めた。やがてじとじととした空気に追いついてポツリポツリと雨が降り始める。
「それにしても、ずいぶん焦ってますね、お客さん。」
タバコのにおいを醸し出す中年男性が声をかけた。
「ちょっと急いでいてね。」
それにハルもこたえる。
少し間を開けて、
「ねえ、運転手さん。もっとスピード出せないんですか?」
苛立ちの混じった声で言った。
それに対して運転手は苦笑まじりに「これ以上は無理ですよ。」とこたえた。
「これでももう120キロ近く出てるんです。これ以上スピードを出したら事故っちまう。」
運転席に身を乗り出していたハルはやっとあきらめて、後部座席に座りなおした。そして脇にある灰皿を確認すると、ポケットからライターとお気に入りの銘柄のタバコを取り出し、火をつけた。
運転手が窓を開ける。ハルは外に煙を吐き出した。
煙はもわもわと、あてもなく外の灰色へ吸い込まれてゆく。雲の合間に広がってゆく煙をぼおっと見ていたハルの頭に、一滴の灰色がぽつりと落ちてきた。
「おや、雨ですな。」
運転手が窓を閉めると、ついさっきまで外に伸びていた薄白いものはぷつと途切れ、車内にあふれた。
ハルはタバコの先を灰皿に押し付け、それを捨てた。
午後2時。
モダンな黒の自動車は秋の小雨の中をひた走る。
「現場百回、なんだけどなぁ…。」
シムは一人呟いた。
シムとハルが交代交代でミナの家を調査しはじめてから、早二週間。
ヒントになりそうなものは何一つ見つかっていなかった。
「本当に俺たちだけで解決できんのかねぇ、この事件…。」
言いながらシムは胸ポケットに手をかけたが、殺人現場で一服するのもはばかられ、手をテーブルについてただそこにあった木椅子に腰かけた。
いつの間にか外ではしとしとと雨が降っている。
きょろきょろと辺りを見回しながら、シムは途方に暮れていた。
もう二週間だ。
それだけ経つのにまだ何も解決していないし、その手がかりも全くない。昼下がりに連載しているラジオの推理小説のように怪しい人間がはっきりわかっているわけでもない。
一人でこの異質な空間にいると、余計にその広大無辺さに飲み込まれそうで恐ろしい。
家具も何もないせいか、それとも自分の気の弱くなっているせいか、この部屋までもが以前より広くなっているように見える。
シムはテーブルの上に置いてあるショルダーバッグをつかむと、中からポットを取り出した。
ポットのふたを開けてぐいと流し込む。が、すぐに口から離して、からからとそれを振った。
「なんだ…空かよ。」
ふたを閉めなおしてバッグにしまう。
茶でも買いに行くか、と財布を開けてみると中には大量のレシートが詰め込まれていた。全部取り出して中を覗き、試しに何度か逆さにして振ってみたが、無いものは無い。財布はむなしく乾いた音を立てるのみだった。
「…そういや今日ハルに飯たかるつもりだったんだった。」
今朝の自分を呪いつつ、しぶしぶと財布をしまう。
捜査に行き詰ったシムにはすることもなく、空きっぱなしのショルダーバッグの口をやけに丁寧に閉じた。ショルダーバッグを膝に抱え、大きな体をのけぞらせる。
せっかく閉じたバッグをまた開けて、何かないかと中身を引っ掻き回す。
あるのは空になったポットと空になった財布だけ。
シムはのどに手をやった。
「…無いとわかると余計にのどが渇くのが人間というものである。なんてな。」
バッグをテーブルの上に置き、部屋の中をしばらくぐるぐると歩きまわると、シムは現場となった居間とつながる台所に進んだ。
台所もすべて事件当時のままだ。
女性の一人暮らしどころか、子持ち家族の家でもやや広すぎる台所。食器棚、流し台、オーブントースター。
器具は一式そろっていて、多少は使われた形跡があるのに、どこかよそよそしい雰囲気がした。
台所の奥、ガスコンロのすぐそばに冷蔵庫がある。
シムは冷蔵庫に近寄り、扉を開けた。
「確か未開封のオレンジジュースがあったはずなんだよなー…。」
もちろん死人とはいえ他人のオレンジジュースを勝手に飲むのには罪の意識を感じるが、それ以上にシムはのどが渇いていた。
いくつかある扉をガチャガチャとあけてゆく。
「あれ、どこだったかな…。」
扉を開けては閉め、開けては閉めを繰り返すが、オレンジジュースは見つからない。
ちょうど腰の位置にある観音開きの扉を開ける。
「お、あったあった。」
広いスペースにまばらに散らばる食材の中にオレンジジュースが紛れていた。
シムは上機嫌にそれをつかみとる。
蓋を開けようとして、
「…っと。これ賞味期限大丈夫なのか?」
オレンジジュースをくるりと回す。
「えーと…ってあれ?なんだこれ。」
シムはラベルに薄くこびりついた赤色を見て言った。拭き取られた後がある。
「なにがついてんだろ。」
ふと見ると、元オレンジジュースがあったその横に、トマトケチャップが有るのを見つけた。
「ああ、ケチャップが着いちまったんだな…。ミナさん結構ドジなところがあったみたいだし。」
まあとにかくオレンジジュースをいただくとするか、とシムがジュースの蓋を今度こそ開けようとしたとき。
ブーッブーッ、とポケットで携帯が鳴り出した。
「こんなときに誰だよ。」と小声で言いつつ、シムは携帯をとる。ちらりと見えた腕時計は12時前を差していた。
「もしもし。どなたですか…ってアイリオーゼちゃんか。どうかしたの?」
「もしもし、シムさん?」
アイリオーゼが電話なんて珍しい。
一体なんの要件かと思えば、
「ハルがいないんだけど。」
「え。」
思わず間の抜けた声が出た。
アイリオーゼはやれやれといった調子で続ける。
「どこに行ったかシムさんわかる?あいつの携帯通じないんだけど。」
真面目なハルが仕事を放り出すようなことはしないのにおかしいことだ。
あるとしたら、あの脅迫状関連の事件が起きたときくらいだが…。
シムはオレンジジュースを諦めて冷蔵庫にしまおうとケチャップを端の方に寄せた。
「ん…?」
その手がとまる。
シムはケチャップを手にとり、蓋を開けた。
「このケチャップって…。」
「シムさんどうかしたの?」
「ああ、いや、それがさ…。」
アイリオーゼの言葉に応えようとしたときだった。
頭のすぐ後ろで空気が摩擦音を立てるのが聞こえた。
シムが振り返るのは間に合わず、鋭い痛みと鈍い音が頭に響く。
「っ…」
声を出そうとしても、声にならない。燃えるような痛みに視界が薄れ、地面に倒れる。
ケチャップが手からするりと抜け落ちる。
遠くでアイリオーゼがシムの名を呼ぶ声が聞こえていた。