10
「早くしてくれ、急いでるんだ。」
ハルは乗り込むなり運転手を急かした。
いったいなんだっていうんですかとタクシーの運転手は少し混乱しながらも、どちらへ向かいましょうと勤めを果たそうと客に問いかけた。
「とりあえずロッキング地区へ。その後は教えますんで。」
言いながらハルは早く早くと貧乏ゆすりをした。
物分りのいい運転手は分かりましたと車を出した。午後4時。年季のはいった黄色いタクシーが田舎道へとそれてゆく。
目を覚ますと同時にズキッと鋭い頭痛に襲われた。狭い視野の中辺りを見渡すと、記憶が正しければここはどうやら交番近くのセスター医院のようで、自分は医院の中のどっかに設置してあるベッドに寝かされているのだと認識するのにはそう時間はかからなかった。
頭が痛くて少しも動けない。
さざめきの様なざわざわとした音が耳をくすぐる。
左目を力いっぱいはじに寄せると、少し柔らかい雰囲気の白色に波打つカーテンが見えた。その向こうに薬品だの医療器具だのが置いてあると思われる棚やカートの影がぼんやりと見える。
そのうち誰かが入ってくる気配がして、はいはい、泣かないでねーすぐ終わるからねーと子どもをなだめすかすかのような声がカーテンの向こうから聞こえてきた。
先ほどまでの静けさを打ち破る子どもの大きな泣き声と、じっとしてなさい、とおそらくはその子の母親の力みぎみの声が後に続く。
はい、終わったよーと優しげなこの医院の医者、セスター女医の声がふんわりとシムの耳に届く。
泣き声が遠ざかるのを待って、1人カーテンの裏に影を残すセスター女医に「注射でもしてたんですか。」とシムは声をかけた。
その声にセスター女医は何やら物書きをしていた手を止め、「あら、気がついたんですね。」と安堵したかのような声で返した。
シムを囲う白いカーテンをシャーッとひきながら「ええ、インフルエンザのワクチンをね。最近どんどん冷えてきているし、みなさん冬に備えて接種を受けにくるんです。」とシムの問いに答え、その姿を現した。
彼女の美しいブロンドの髪が開けた窓から迷い込んでくる秋風にそよそよと儚げに揺れる。
シムはそれに見とれながら、「私はどうしてここにいるんでしょう…」と尋ねた。
「ああ、シムさん、あなた鈍器のようなもので頭を殴られて意識を失っていたんですよ。それをアイリオーゼちゃんが発見して私に報せてくれたんです。二人でシムさんをここまで運ぶのは結構きつかったんですよ。」
シムの意識がはっきりと戻っているのを再度確認すると、セスター女医はくすくすと笑いながら言った。すみませんとシムが少し顔を赤らめながら照れるように返す。
「ほんっとちゃんと仕事してるんですか?飲み食いだけは人並み以上にするくせに、あんなちっぽけな交番で日毎ぽーっとしてるからそんな体型になったんじゃないですか?運ぶこっちの身にもなってくださいよ。」
突如としてあらわれた、こ、この毒舌は…とドキドキしながらセスター女医の奥を見やると、いつのまにかアイリオーゼが部屋の入り口に腕組みして立っていた。
ついさっきまでの緩やかでふわふわとした空気が一瞬にして凍りついたかのような、そんな恐怖を抱きつつも、シムは申し訳ない、とアイリオーゼの気迫にかたまってしまった喉からようやく声をしぼりだした。
セスター女医も苦笑いだ。
はあーっとわざとらしいため息をたっぷりと吐き出すと、アイリオーゼは壁にもたれかかり、「今ハルからもうすぐ着くって連絡あったから、シムさんは病院で無事に寝てるって言っておいたから。話してるうちにでも駆けこんでくるんじゃないかな。」と疲れたように言った。
シムは少女の言葉のにおいから、彼女が負ったであろう気苦労のようなものをじんと感じ、ありがとうと心から礼を言った。
アイリオーゼは無言で頷き、トントンと傍らにあったデスクを指で小突いた。
セスター女医もふわりと微笑み、くるくると事務机に付属した丸椅子を操り腰掛けた。
しばらくセスター女医が再び物書きに勤しむペンのさらさらとした音だけが部屋にあり、心地よい沈黙が続いた。
沈黙を破ったのはあ、というアイリオーゼのまるでうっかり漏らしてしまったかのようなつぶやき声だった。
そしてー秋の日は釣瓶落としと言うが、夕暮れを通り越して闇色に染まった窓ガラスの向こうを見やり、「ハルが来た。」と誰に言うでもなく口にした。
遠くで自動車のエンジンの音と、バンと扉を閉める音が聞こえた。
すぐにガラガラとセスター医院の入り口の引き戸が開くかわいた音が追い付き、どたどたとシムは、シムはどこですか!とハルの大声をあげるのが聞こえたところで、セスター女医ははーいと応え腰をあげた。
ここですよ、とセスター女医は待ち合い室までハルを呼びにいき、ハルの多少急いた足音とともにシムの病室まで帰ってきた。
ハルはまず戸口で相変わらず腕組みをして壁にもたれかかっていたアイリオーゼにありがとなと口早に言い、セスター女医に軽く会釈をし、ようやくシムの横たわるベッドまでたどりついた。
そして丁寧に包帯で巻かれた血の滲んだ頭を見やり、まだ少し眠たげな表情のシムの顔面へと視線を移し、ふうと息を吐いた。
「大事に至らなくてよかったよ。災難だったな。」
すこしづつ落ち着き始めたような声音でシムに話しかける。シムもああ、目が覚めたら身に覚えのない場所にいたからびっくりしたけどな。と穏やかな声で返す。
「なんでこんなことになったんだ。…もしかして連続殺人事件の犯人が俺たちに警告でもしているのか…」
わからない、犯人の顔も何も見てないし覚えてないんだ。とシムが呻く。
うーんと顎に手をすりつけながら考え込む。
「なあ」
「なんだよ」
「お前殴られる前一体何をしてたんだ?」
ハルの問いにシムは目をぎゅっとつぶり、眉間に皺を寄せ、ううーんと唸った。束の間沈黙し、ああ、そうだ、と声をあげる。しかししばらく躊躇しハルの目を見た。ハルはもちろん思い出したなら早く話せと視線を送った。それでもまだ躊躇い、ごほんと一つ咳払いをしてから、ハルの視線を受け流し、低い声で若干早口に言った。
「喉がかわいたからミナさんちの冷蔵庫から飲み物をいただこうとだな…」
「はあ?」
裏返りかけのハルの声にほーらやっぱりそういう反応するんだとでも言いたげにシムは痛む頭を無理やり壁の方へとめぐらした。
まあ、いいから続けてくれよ。とハルに言われまたぼそぼそと語り出す。
「ミナさんちの冷蔵庫にオレンジジュースがあったのを思い出していただこうと思ったんだ。確かに現場のもの勝手に飲もうとしたのは悪かったよ。」
でも結局飲まなかったからいいだろ、というシムにわかったわかった、怒ってないからと相槌をうち話を続けさせる。
「そしたらオレンジジュースのパックになんか赤い物がこびりついてたんだ。」
赤、と聞いてハルの眉がぴくりと動く。
「隣にケチャップがあったから、ああこれがついちまったんだなと思って…ほら、ミナさん清楚美人だけどうっかりしたところがあるだろ。まあそう思ってケチャップを見てたら…」
「見てたら?」
「脳天ガツンとやられて、この有様よ。」
なるほどとハルはかがめていた腰をのばし、再び顎を手ですりだした。
でもどうしてシムは殴られたのだろうか。結果無事だったからよかったものの、打ちどころが悪かったら死んでいたかもしれない。いや、それどころか、アイリオーゼが発見しなかったら、打ちどころのいい悪いに関わらず、出血多量で死んでいたかもしれない。
犯人はシムを殺す気で殴ったのだろうか。犯人はシムはもう片付けたものだと今はもうそう思っているのだろうか。
いや、待てよ。
ハルは胸のざわつきを感じた。
もし、もしもだ。もしもシムとハルがミナ・カルダート殺人事件の捜査をしていることを疎ましく思っている輩がいたとして、だ。どうして二人がミナの事件の捜査をしていると知り得たのか。二人の捜査は、捜査といっても大がかりなものではなく、一日のうちに一人が一度だけ出入りをするような、はたから見たら何やってるんだろうこんな空き家にと思われる程度のもので、それも出入りをするところを直接見ないとまだ誰かがミナの家を訪ねているなんてことなど知りようもないのだ。
もしシムの傷害事件と脅迫状の連続殺人事件に関係があるのなら…
ハルはごくりと唾を飲み込んだ。額に汗が滲み出る。
「おい、ハル、どうしたんだ?顔色が悪いぞ。」
犯人は俺たちを監視しているかもしれない…?
体が蝋のように固まる。
見えないモノに見られている恐ろしさ。頭の中でカンカンと警鐘が鳴る。
ひょっとして。
俺たちの探している結末はとても恐ろしいものなのではないか。
ハルは唐突に思った。
死体が行方不明のミナ・カルダート殺人事件。
他三件の連続殺人事件。
シムの傷害事件。
そしてケチャップ…。
ばっとハルの頭の中に何かが落ちてきて破裂した。
「ハルさん、大丈夫ですか?」
「どうしたんだよハル?」
セスター女医とシムの心配する声も余所に、ハルはたまらなくなり、走り出した。
後ろから二人の声が聞こえてくる。
しかし止まらずセスター医院の引き戸を開け、ハルはミナ・カルダートの家へと全速力で走ってゆく。
アイリオーゼはいつのまにかいなくなっていた。
走りながら胸のざわざわはいつまでも晴れなかった。
秋の暗い闇の中を街頭や民家の灯りを頼りに走る。
セスター医院は子どものころからよく通った医院だし、このあたりの路地は多少入り組んでいても迷うことはなかった。
やがて交番近くの夜の公園がぼんやり、寂しそうに浮かび上がった。子どもたちも誰もいない公園はなんだかセンチメンタルで、それも手伝ってハルは走りながら目頭が熱くなってきた。
公園を境に自宅とは逆方向ーミナ・カルダートの家へ向かう。
走っていくと夕餉の準備をしているのかそこかしこの家からスープや肉を焼くいいにおいがハルの鼻腔をくすぐった。
その中で灯りのついていない、らくがきだらけの家はしんとしていてにおいも音もなかった。
ハルはその家ーミナの家の前に立ち、呼吸を整えつつ足の鈍い痛みを感じながら、いつも捜査のため立ちいるときのように戸を開けた。
当然だが真っ暗な室内に、シムはポケットから小型の懐中電灯を取り出した。
もう主のいないこの家には電気などはつい数日前から通っておらず、夜は灯りとなるものが存在しないのだ。
懐中電灯のスイッチを入れ、その灯りを頼りにシムの殴られたという台所に入り、冷蔵庫にスポットを当てた。
次々と扉を開けては閉め開けては閉めをくりかえし、ようやく例のオレンジジュースを見つけた。手に取るとたしかにパックの側面に赤い何かがこびりついていた。
ハルはそれをそっと棚に戻すと、すぐ横にあるケチャップを手にとった。ケチャップのボトルは二つ入っていて、ハルが手にとったのはそのうちの液だれして、ふたにオレンジジュースのパックにあるのと同じように赤い何かがこびりついている方だ。
蓋を開け、においを嗅ぐ。
思っていた通りにそれはケチャップのものではなかった。
「やっぱり…」
ハルはそうつぶやいた後、束の間呆然としていた。
ーそうでなければよかったのに。
熱い何かがこみあげてきて、気がついたときにはハルの目から大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ちていた。
「なんで…。」
ひきつりかけた声でつぶやく。
それからしばらく、転がった懐中電灯が床をゆらゆらと照らす中、ハルは声も立てずに涙し続けた。