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白浜のカレイ

作者: をはち
掲載日:2026/07/21

少し潜ればすぐだよ――



あれは、千葉の海に面した小さな岩場での出来事だった。


私がそのカレイを初めて見たのは、五歳の夏のことだったろうか。


潮の引いた岩の隙間に、大きなカレイがじっと鎮座していた。体を砂に溶け込ませ、微動だにしない。


その姿は、海の底に潜り込んだ生き物というより、まるで岩そのもののように見えた。


それ以来、毎年夏が来るたび、私はその場所へ向かった。誰にも捕らえられていないカレイの姿を確認し、安堵の息を吐く。


そして、腰まで海水に浸かり、手にしたアミを構えて、獲物を待った。いつか自分がしとめるのだと、幼い心に決めていた。


八歳の夏、地元の少女に声をかけられた。


「毎年、来てるね」


少女は小さく微笑んだ。日焼けした肌に、白い歯が浮かぶ。


「あのカレイ、捕まえたいんでしょ。少し潜れば、すぐだよ」


私はその言葉を信じた。少女に手を引かれ、息を止めて海に潜った。水中の世界は、予想以上に静かで美しかった。


カレイの向こうに、鮮やかな鯛やヒラメが舞っていた。光の筋が水を切り、無数の鱗がきらめく。


少女はさらに先へ、私の手を強く引く。私は夢中でその光景に魅入られた。だが、ふと我に返ったとき、足の届かない深みまで来ていた。肺が焼ける。


恐怖が一瞬で全身を支配した。


私は少女の手から自分の手を引き抜き、必死に手足をばたつかせて岩場へと這い上がった。少女の姿は、もうどこにもなかった。


その後も、毎年、同じ岩場で私はカレイを狙った。少女の声が耳の奥で響く。


「少し潜れば、すぐだよ」


その先に待つ、鯛とヒラメの舞い踊り。大きな魚たちの宴。私は知りながらも、十二歳の夏まで、アミを手にただその場に佇み続けた。


中学一年生となった夏、私は再びその場所を訪れた。


水が、なかった。岩場は干上がったコンクリートの底を晒し、タイルの上に描かれたカレイの絵が、陽光の下で乾いていた。


その周りには、色褪せた鯛とヒラメが、永遠に踊り続けている。すべては、人工のレジャープールだった。


岩場を利用した施設が閉鎖された跡地に、海水が流れ込んでいただけだったのだ。小さな漁港の老人が、煙草をくゆらせながら教えてくれた。


「去年、女の子の遺体が見つかってな。あのプール、取り壊しになったんだ。一部、埋め立てられてよ」


私は凍りついた。あの夏、少女の手を離さなければ。私は本当に、鯛とヒラメの舞い踊りの輪に加わっていたのだろうか。


底の見えない水底で、永遠に――


背筋を冷たいものが這い上がる。あの少女は、私を誘いに来たのだ。仲間にするために。


そして私は、ただ一度だけ、死の誘惑から逃れた。


それ以来、私は海を見ることができない。波の音を聞くだけで、胸の奥に、幼い日の恐怖と、わずかな後悔が蘇る。


――少し潜れば、すぐだよ。


あの甘い囁きは、今も私の耳元で、静かに響き続けている。



読んで頂き有り難う御座います^^

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