白浜のカレイ
少し潜ればすぐだよ――
あれは、千葉の海に面した小さな岩場での出来事だった。
私がそのカレイを初めて見たのは、五歳の夏のことだったろうか。
潮の引いた岩の隙間に、大きなカレイがじっと鎮座していた。体を砂に溶け込ませ、微動だにしない。
その姿は、海の底に潜り込んだ生き物というより、まるで岩そのもののように見えた。
それ以来、毎年夏が来るたび、私はその場所へ向かった。誰にも捕らえられていないカレイの姿を確認し、安堵の息を吐く。
そして、腰まで海水に浸かり、手にしたアミを構えて、獲物を待った。いつか自分がしとめるのだと、幼い心に決めていた。
八歳の夏、地元の少女に声をかけられた。
「毎年、来てるね」
少女は小さく微笑んだ。日焼けした肌に、白い歯が浮かぶ。
「あのカレイ、捕まえたいんでしょ。少し潜れば、すぐだよ」
私はその言葉を信じた。少女に手を引かれ、息を止めて海に潜った。水中の世界は、予想以上に静かで美しかった。
カレイの向こうに、鮮やかな鯛やヒラメが舞っていた。光の筋が水を切り、無数の鱗がきらめく。
少女はさらに先へ、私の手を強く引く。私は夢中でその光景に魅入られた。だが、ふと我に返ったとき、足の届かない深みまで来ていた。肺が焼ける。
恐怖が一瞬で全身を支配した。
私は少女の手から自分の手を引き抜き、必死に手足をばたつかせて岩場へと這い上がった。少女の姿は、もうどこにもなかった。
その後も、毎年、同じ岩場で私はカレイを狙った。少女の声が耳の奥で響く。
「少し潜れば、すぐだよ」
その先に待つ、鯛とヒラメの舞い踊り。大きな魚たちの宴。私は知りながらも、十二歳の夏まで、アミを手にただその場に佇み続けた。
中学一年生となった夏、私は再びその場所を訪れた。
水が、なかった。岩場は干上がったコンクリートの底を晒し、タイルの上に描かれたカレイの絵が、陽光の下で乾いていた。
その周りには、色褪せた鯛とヒラメが、永遠に踊り続けている。すべては、人工のレジャープールだった。
岩場を利用した施設が閉鎖された跡地に、海水が流れ込んでいただけだったのだ。小さな漁港の老人が、煙草をくゆらせながら教えてくれた。
「去年、女の子の遺体が見つかってな。あのプール、取り壊しになったんだ。一部、埋め立てられてよ」
私は凍りついた。あの夏、少女の手を離さなければ。私は本当に、鯛とヒラメの舞い踊りの輪に加わっていたのだろうか。
底の見えない水底で、永遠に――
背筋を冷たいものが這い上がる。あの少女は、私を誘いに来たのだ。仲間にするために。
そして私は、ただ一度だけ、死の誘惑から逃れた。
それ以来、私は海を見ることができない。波の音を聞くだけで、胸の奥に、幼い日の恐怖と、わずかな後悔が蘇る。
――少し潜れば、すぐだよ。
あの甘い囁きは、今も私の耳元で、静かに響き続けている。
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