僕の姉さん
使い慣れないパソコンの前に座った僕は人差し指をぺちぺちと使って、必死になってキーボードで文字を打ち込んでいた。スペースキーを押すときはキィキィと耳障りな音を出すし、エンターキーは大きいからかカタンッと音もでかい。しかも、どこにどの文字があるのか少しずつ慣れてくると、僕のほうでも指を動かすスピードが上がってくるのでガチャガチャうるさい。
自分の部屋でやっているから今のところ誰からも苦情はないけれど、隣の部屋にいる姉さんがいつ飛び掛かってくるともしれないので、実はちょっと戦々恐々としている。
そう思って何気なく振り返ったら姉さんがいた。
腕は組んでいないし怒ってはいないようだけど、じーっと僕を見ている。
「あ、姉さん、おはよう」
「はい弟くん、おはよう。早速だけど、目の前に置いているキーボードで試しに『お、は、よ、う』って打ち込んでみてくれる?」
「お、は、よ、う」
「いちいち人差し指でやるからうるさいんだよ。指全部使え」
「ちょっと待って、やってみる」
「うんやりなさい」
「お、は、よ、う」
確かにさっきよりは静かになった。右手の薬指、人差し指、左手の小指、あとは再び右手の人差し指と薬指。うん、これ何かの体操か? あとエンター押すとき右手の小指をつりそうになる。しかも両手でキーボードを隠すからキーに書かれた字が見えない。一文字ごとに指の間から覗き込んで確認する必要があってわずらわしい。
これはキーの並びを覚えた人向けのポジションだな。
カマキリみたいに人差し指を構えていた姿が懐かしい。
「そんなんじゃどうせ無理だろうけど、ブラインドタッチできる?」
「ブラインド……何?」
結婚するとかそういう話? いやそれはブライダルだ。でもなんか最後にタッチがつくから、いやらしい意味の言葉に違いない。
ブラインドでタッチ……。
姉さんは意外に下ネタが大好きな思春期の少年みたいなところがあるから、年の離れた弟である僕はいつもからかわれる。
「キーボードを見ずに、画面を見たまま文字を打つやつ」
「あー、なんだそんなことか。すごい機能があるのかと思えば」
「じゃあやってみろ」
「お、は、よ、う」
「p、じゃ、う、ぷ。……おいおい、何一つ合ってないじゃないか」
「朝の挨拶がぴーじゃうぷだったら面白いよね」
「面白がるのはお前くらいなもので、そんなことになったら朝は誰にも会いたくなくなるな。うっとうしい」
「そもそも人差し指ってどこに置くの?」
「FとJだ。なんでそんなとこにFとJがあるのかは私にも疑問だが、そう決まってる。わかりやすいように出っ張りがあるだろ」
「あ、これか。でもこのキーって日本語だと『は』と『ま』だよ。はま。なんで?」
「なんでって、さいころでも振って決めたんじゃないか? わけのわからん配置だし、かな打ちはしないからわからんな。いや、していてもわからなかったろうが……」
「博識で頼れる姉さんにもわからないことってあるんだ」
「博識で頼れる姉さんか……。ふふん、おだてても私が機嫌よくなるだけだぞ」
と言って笑顔になるから姉さんはかわいい。こうなると、もっとおだててみたくなる。調子に乗った姉さんは僕のことを甘やかしがちになるので対応が楽になる。
とはいえ、ここは余計なことを言わないように我慢だ。やりすぎると笑顔は引っ込んで真顔になって、どっか行ってしまうので加減が難しいのである。
もうちょっと部屋にいてほしいから、今日は「姉さん、ご機嫌ぎりぎり選手権」はやめておこう。
いつになく上機嫌な姉さんが寄ってきて、画面とキーボードと僕の顔を順繰りに指さした。
「それで、お前は休日の朝からパソコンのキーボードをカチャカチャと何を一生懸命やってるんだ? うるさくて雨が降ってるのかと思ったぞ」
「降ってるよ。小雨だから静かだけど昨日の夜から降ってるよ」
「いいから何をやってるか答えろ」
曲げた人差し指の関節で肩をぐりぐりされた。ちょっとびっくりしたけど全然痛くないし気持ちいい。ちょうど凝ってたところなのでやらせておこうかと思ったら、油断して開いていた脇の間に手を入れられてくすぐられたので僕はひっくり返りそうになった。
くすぐりには弱い。
あ、あ、あっ! と声にならない。
とにかく何か答えねば。笑いすぎて過呼吸で死んでしまう。
「ほら、新しくパソコンをもらったからね。せっかくだから何か書いてみようと思って」
「ふーん。小説?」
「読んでみる?」
「どうせそんなこったろうと思って実は読みに来た。というかさっきから画面ちらちら見えているしな。ジャンルは何だ? 文量はどれくらい? まぁ答えを聞くより読んだほうが早いか」
「だったら今回も感想よろしくね。いつもと違って手書きじゃないから読みやすいと思うし」
「面白ければな」
それには答えず、僕は椅子から立ち上がって姉さんに譲る。譲られるまま椅子に座った姉さんは足を組んでパソコンのモニターに向き合った。
早ければ五分もかからず全部読んでしまうだろう。
そう見込んだ僕は少し距離を取った斜め後ろに立って、姉さんが読み終わるのを静かに待つ。
「ふうむ……」
いつもなら僕なんかより三倍は速いスピードで本を読み終える姉さんだが、それほど長い文章でもないはずなのに、今回はなかなか読み終わらない。いや一度は読み終わったはずなのにマウスのホイールをくりくりして、文章を行ったり来たりしている。
無意識なのか意識的なのか、組んでいた足も何度か右と左を組み替えた。行き場のない左手がキーボードの上に添えられたり自分の顔に添えられたりとせわしない。
どう見てもそわそわしている。
最後の最後、ようやくマウスから右手を離した姉さんが両手をすり合わせて声を絞り出した。
「お前これ、小説じゃないじゃないか……」
という姉さんの言葉は歯切れが悪い。
なぜかこちらを向いてくれない。
でも確かに小説じゃないのだ。だます結果になって申し訳ない気持ちもあるにはあるけれど、どちからかといえば僕はちょっと勝ち誇った気分で姉さんに微笑みかける。
「誕生日おめでとう。姉さんに感謝の手紙を書いてみたんだ」
いつもありがとう、という、姉さんへの気持ちを約三千字の文章に注ぎ込んだ力作だ。手首が痛くなるくらい人差し指でぺちぺちやった甲斐はある。早朝に目が覚めて、慣れないパソコンで執筆に数時間かけたのもあって、たぶん照れ隠しだろうけれど時間をかけて読んでくれたのは嬉しいくらいだ。
やや顔が赤くなっている姉さんがようやくこっちへ振り向いた。
「そういうのは手書きでやれ」
「まだ下書きのつもりだったのに姉さんが覗きに来たんじゃないか。夕食の後で渡そうと思ってたのに」
「ごめん、今日は一年に一度の誕生日だから浮かれててね……だってお前毎年プレゼントくれるじゃん。起きたら欲しくなるじゃん。ねだりに来たんだよ」
そんなこと言われたらこっちまで嬉しくなってくる。準備のやり甲斐があるというものだ。
「実は手紙とは別にプレゼントも用意してる」
「できる弟だな! これはお前の誕生日に私も奮発せねばな!」
「でも喜んでくれるかどうか……」
「馬鹿だなお前、誕生日のプレゼントは気持ちが嬉しいんじゃないか。何をもらっても嬉しいもんだぞ」
「でもさっき感謝の手紙はどうせなら手書きでやれって言ったよね? 気持ちが大事ならテキストデータでもいいじゃん」
「……そこはまあ、あれだよ、ほら、やっぱ手書きの手紙はちょっと特別じゃん。あとでちゃんと手書きにした奴ちょうだいね」
「今日中に書くよ」
「あ、ついでにテキストデータも送っといてくれ! 消すなよ! 記念だ!」
とか言いながら、姉さんは画面のほうを向いてマウスをカチカチやって何か操作した。
「あ、やっぱり大丈夫だ。今ちょちょいと私のパソコンに送っておいたから」
ネットって便利だね。
「それでお前のプレゼントって何? もらう気満々だけど、がっついてごめんね?」
「それを言うなら僕だって、あげる気満々だからね。それくらいほしがってくれるほうが渡しやすいかも」
僕は机の引き出しを開いてプレゼントを取り出した。
「はい、これ」
「これって……ノート?」
「うん。子供のころ姉さんが僕ために考えてくれたお話があったじゃない? 夜、寝る前に姉さんが隣で思い付くままにしゃべってくれた物語。それをちゃんと小説にしてみたんだ。昔のことだから記憶はあやふやだったし、ノート一冊分をボールペンで書くのは数か月かかったよ。昨日ぎりぎり間に合ったんだ。だから感謝の手紙を書くのは当日までずれ込んじゃったんだけどね」
「お前、こんなものわざわざ……。あの頃の話なんて、私だってよく覚えてなかったのに……」
とか言いつつ姉さんは涙ぐんでいる。喜んでくれているらしい。
僕もなんだか目頭が熱くなってきた。
「だって姉さん、来月には結婚するから。家を出て、たぶん僕からの誕生日プレゼントもこれが最後になるかもしれないし、何か思い出に残るものを持っていてほしくて……」
「もう二度と会えなくなるってわけじゃないけど……確かにな。私もこういうの嬉しいよ」
年の離れた姉さんは結婚して家を出ていくことが決まっている。いつも一緒にいた僕は寂しいけれど、大切な姉さんだからこそ、ちゃんと送り出してあげたかった。
なのにぐずぐず涙が出てくる。
ティッシュで涙を拭きとって強引に笑顔を作る。
「小説家になりたいって夢は姉さんにもらったものなんだ。だからいつも最初の読者は姉さんだと思って書いてきたし、それを読んでくれる姉さんには本当に感謝しているんだよ。へたくそな文章でも楽しそうに読んでくれるから、僕は嬉しかったんだ」
「それはお前が私を楽しませてくれたからだよ。お前は本当にいい弟だ」
「姉さんに似たんだね」
「おだてても私が喜ぶだけだぞって」
「だからおだてるんじゃないか。大切な人との喜びって共有できるものなんだ。姉さんがいいお姉さんなのは本当のことだしね」
姉さんはノートをパラパラとめくっている。読んでいるというよりも、ノートに書かれている物語を流し見て、僕らの間に横たわる思い出をかみしめているのかもしれない。涙ぐんでいた顔が少しずつあたたかな笑顔になっていく。姉さんが泣くところを見たかった僕だけれど、やっぱり姉さんには笑顔がよく似合う。
僕は気恥ずかしさを隠して姉さんに打ち明ける。
「でもそれは姉さんが僕に語り聞かせてくれた物語。厳密には僕の作品じゃない。だけど、どうしても僕はそれを形にしたかったんだ。だってそれは、その物語は、大切な人を喜ばせようという優しい気持ちにあふれている作品だったから。だからさ、やっぱり僕は姉さんにそれを渡したくなったんだ」
どうか幸せに。
大切で最高な僕の姉さん。




