第5話:王宮の影と光のダンス
弦楽器の音色が、波のように押し寄せてくる。
王宮の大広間は、着飾った貴族たちの熱気と、噎せ返るような香水の匂いで満たされていた。
今夜は建国記念の舞踏会。
国中の有力者が集うこの場所は、私にとってはただの処刑台への花道に過ぎない。
「……相変わらず、お似合いですこと」
私はグラスを片手に、壁際からホールの中央を冷ややかに眺めた。
そこでは、本来なら婚約者である私が立つべき場所に、桃色の髪の少女――ミエラが陣取っている。
彼女の胸元には、以前、私が宝石店で突き返した「情熱の森」のブローチが輝いていた。
やはり、あの男は返品せずに彼女へ横流ししたのだ。
王室公費で購入されたその宝石は、シャンデリアの強い光の下で見ると、私の予想通り毒々しいほどに安っぽく見えた。
数ヶ月もすれば色が抜け、ガラス玉へと成り下がるだろう。
「見て、王太子殿下がまたあのご令嬢と……」
「アリア様が可哀想だわ」
「いや、アリア様のあのご気性では、殿下が安らぎを求めるのも無理はない」
扇で口元を隠した貴婦人たちの噂話が、さざ波のように広がる。
順調だ。
私はこの一ヶ月、徹底して「高慢で冷酷な女」を演じきってきた。
エドワード様が私をエスコートせず、愛人を侍らせて踊るという前代未聞の非礼も、周囲は「アリアに原因がある」と納得し始めている。
エドワード様がミエラの腰に手を回し、ステップを踏み始める。
幸せそうな二人。
その足元の床が、借金という名のシロアリに食い尽くされているとも知らずに。
「……馬鹿馬鹿しい」
私はシャンパンを一口で飲み干し、喧騒から逃れるようにバルコニーへの扉を開けた。
* * *
夜風が火照った頬を撫でる。
バルコニーは静寂に包まれていた。
眼下には王都の夜景が広がり、その光の一つ一つに人々の生活がある。
かつての私は、その生活を守るために身を削って働いていた。
けれど、もう違う。
私は私のために生きるのだ。
「壁の花でいるのも退屈だろう?」
夜の闇から溶け出したように、低い声が響いた。
手すりにもたれかかっていた私は、驚きに肩を跳ねさせる。
隣の柱の影に、ルシアン様が立っていた。
夜空色の瞳が、月明かりを反射して静かに光っている。
「……ルシアン殿下。気配を消すのがお上手ですわね」
「王宮で生き残るための処世術だよ。それに、君がここへ逃げ込んでくるのは予想がついていたから」
彼はふわりと笑い、私の前に歩み出た。
ホールから漏れ聞こえるワルツの旋律が、微かに耳に届く。
「一曲、どうかな? 僕たちの共犯関係に乾杯して」
差し出された手。
それはエドワード様のような強制的なものではなく、私の意思を尊重するように、空中で静止している。
断る理由などなかった。
私は扇を閉じ、その手に自分の手を重ねた。
「喜んで」
ルシアン様が私の腰を引き寄せる。
身体が密着し、彼の体温がドレス越しに伝わってきた。
エドワード様のときには感じたことのない、心地よい緊張感。
安っぽい香水の匂いではなく、雨上がりの森のような、清廉で落ち着いた香りが私を包み込む。
私たちは言葉もなく、影の中でステップを踏んだ。
誰に見せるわけでもない、二人だけのダンス。
彼のリードは完璧で、私の呼吸に合わせて優しく、時に力強く導いてくれる。
「……エドワード兄上は、ついに一線を超えたよ」
回転の最中、耳元でルシアン様が囁いた。
甘い愛の言葉かと思いきや、それは冷徹な報告だった。
「例の横領書類、完成させたそうだ。君が国庫の金を使い込んだという、完璧な捏造証拠をね」
「仕事が早いですわね。あの方にしては」
「ミエラ嬢の入れ知恵だろう。『アリア様がやったことにすれば、私たちの借金もチャラになる』とでも吹き込まれたんじゃないかな」
背筋が凍るような話だが、不思議と恐怖はなかった。
私の背中には、彼の手がある。
この頼もしい共犯者が、すでに何重もの罠を張り巡らせていることを知っているからだ。
「君を断罪するための舞台は、来週の卒業パーティーだそうだ」
「あら、奇遇ですわね。私もそこで幕を引くつもりでしたの」
「気が合うね」
曲の終わりに合わせて、ルシアン様が私を深く抱き寄せた。
鼻先が触れ合うほどの距離。
彼の瞳が、獲物を狙う狩人の色から、熱を帯びた男の色へと変わる。
「アリア」
名前を呼ばれただけで、心臓が大きく跳ねた。
いつもの軽口が消え、真摯な響きがそこにあった。
「この騒動が終わって、君が自由になったら。……一番に、僕が名乗りを上げる」
「……殿下?」
「君という有能なパートナーを、ただの契約相手で終わらせるつもりはないんだ。覚悟しておいて」
彼はそれ以上言葉を重ねず、私の手甲に恭しく口づけた。
熱い唇の感触が、呪いのように肌に残る。
それは契約の証ではなく、もっと重く、甘やかな誓いのようだった。
「……戻ろうか。主役がいないと、兄上の独演会が盛り上がらないからね」
ルシアン様は瞬時にいつもの飄々とした仮面を被り直し、私をエスコートしてホールへと戻る。
光溢れる会場には、まだミエラと踊り続けるエドワード様の姿があった。
こちらに気づいた彼が、勝ち誇ったような笑みを向けてくる。
その表情は「お前の命運は尽きた」と言っていた。
愚かな人。
その首に縄がかかっているのは、貴方の方なのに。
私は彼に向けて、扇越しに優雅に微笑み返した。
さあ、始めましょうか。
貴方たちが用意した断罪劇を、極上の喜劇に変えるために。




