第1話:処刑台からのカーテンコール
重い刃が風を切る音がした。
首筋に冷たい金属が触れた、そう思った瞬間のことだ。
私の意識は暗転するどころか、強烈な目眩と共に引き戻されていた。
「……お嬢様? アリアお嬢様、お時間でございます」
聞き覚えのある声に、私はゆっくりと目を開ける。
目の前にいたのは、死神ではなく、困り顔をした侍女のメアリーだった。
「気分でも優れませんか? 本日の夜会は、王太子殿下との婚約を祝う恒例の記念行事ですから、遅れるわけにはまいりませんよ」
夜会。婚約。記念行事。
その単語の羅列に、私の心臓が早鐘を打つ。
慌ててベッドから飛び起き、姿見の前へと駆け寄った。
鏡の中に映る私は、首と胴体が繋がっている。
肌には張りがあり、牢獄暮らしで痩せこけた頬もふっくらとしていた。
卓上のカレンダーを見る。
王国暦458年。
私が処刑された日から、きっかり三年も巻き戻っている。
(戻った……の?)
伝説にある「時の女神の気まぐれ」か、それともただの長い悪夢だったのか。
けれど、断頭台の冷たい感触も、民衆の罵声も、濡れ衣を着せられた屈辱も、すべてが鮮明すぎた。
私は震える手を胸の前で握りしめる。
あの人生で、私は何をしたというのだろう。
公爵令嬢として、王太子エドワード様の完璧な婚約者であろうと努めた。
煌びやかなドレスも宝石も我慢し、王妃教育という名の苦行に耐え、国のための公務に青春を捧げた。
それなのに。
『君のような可愛げのない女は、王妃に相応しくない』
そう吐き捨てられ、横領という身に覚えのない罪を着せられ、処刑されたのだ。
私の節約によって浮いた予算で、彼が愛人のために宝石を買っていたとも知らずに。
(もう、あんな惨めな死に方は御免だわ)
鏡の中の自分を睨みつける。
地味な薄桃色のドレス。控えめな真珠の首飾り。
エドワード様が好む「清楚で従順な人形」のような姿。
ふつふつと、腹の底から怒りが湧き上がってきた。
従順だったから利用された。
愛されようと努力したから、足元を見られたのだ。
なら、逆をやればいい。
私は振り返り、侍女のメアリーに告げた。
「ドレスを変えるわ」
「えっ? ですが、そちらは殿下が先月贈ってくださったもので……」
「ええ。だから着たくないの」
私はウォークインクローゼットへ大股で歩き出した。
公爵家の資産で購入された、私の所有物であるドレスたちが並んでいる。
その奥に、一度も袖を通していない真紅のドレスがあった。
以前、父が「お前にはこういう色も似合うはずだ」と贈ってくれたものだが、派手すぎると敬遠していた一着だ。
「これにするわ」
「お、お嬢様!? それはあまりにも色が強すぎます。殿下のお好みでは……」
「構わないわ。メイクも変えて。もっと強く、目尻を跳ね上げて。唇には一番濃い紅を」
メアリーは狼狽えていたが、私の剣呑な眼差しに気圧されたのか、震える手で準備を始めた。
支度を終え、再び鏡の前に立つ。
そこには、かつての地味な公爵令嬢はいなかった。
燃えるような赤を纏い、冷ややかな視線を投げかける、高慢な美女が立っていた。
「悪くないわね」
私はニヤリと口角を上げる。
嫌われる努力をして、向こうから婚約破棄を突きつけさせてやる。
そして慰謝料をふんだくり、公爵家の領地へ引っ込んで、悠々自適なスローライフを送るのだ。
第二の人生の幕開けである。
* * *
王宮の大広間は、すでに多くの貴族たちで埋め尽くされていた。
シャンデリアの光が宝石を照らし、香水の匂いが鼻をつく。
かつてはこの空間にいるだけで胃が痛くなったものだが、今の私には戦場にしか見えない。
「アリア!」
不機嫌そうな声が響く。
人垣が割れ、豪奢な衣装に身を包んだ金髪の青年が歩いてきた。
この国の王太子、エドワード・ヴァルドアだ。
整った顔立ちをしているが、その眉間には常に深い皺が刻まれている。
私の元婚約者であり、私を処刑台へ送った張本人。
殺意を笑顔の下に隠し、私は優雅に扇を開いた。
「ごきげんよう、エドワード殿下」
カーテシーを披露するが、頭はあえて浅くしか下げない。
エドワード様は、私の姿を見るなり目を丸くし、次いで顔をしかめた。
「なんだその格好は。以前、私が贈った薄桃色のドレスはどうした」
「ああ、あれですか」
私は扇で口元を隠し、ふふっと笑う。
「あのような田舎臭い色、わたくしの美貌が霞んでしまいますもの。雑巾にするのも躊躇われましたので、クローゼットの肥やしにしておりますわ」
「な……っ!?」
エドワード様の顔が朱に染まる。
周囲の貴族たちがざわめいた。
「従順なアリア様が、あんな口を?」「それにしても、なんと美しい……」
エドワード様は、自分の贈答品を侮辱されたことにプライドを傷つけられたようだ。
だが、これは事実上の「公爵家資産」ではなく、私個人への贈り物。
所有権は私にあるのだから、どう扱おうと私の勝手である。
「貴様……今日は記念の夜会だぞ。少しは慎みを」
「あら、記念すべき日だからこそ、一番似合うドレスを選びましたのに。殿下の美的感覚は、少々庶民的すぎて理解できませんわ」
私が畳み掛けると、エドワード様は言葉を詰まらせた。
彼は言い返せないとすぐに暴力的な態度に出る。
予想通り、彼は私の手首を掴もうと手を伸ばしてきた。
「いい加減にしろ! エスコートしてやるから、こっちに来い!」
その手が私に触れる直前。
私は素早く身を翻し、彼の手を空振らせた。
「お断りいたします」
「は?」
「わたくし、安物のコロンの匂いが苦手なんですの。殿下、その香水、街の露店で売っているものでしょう? 鼻が曲がりそうですわ」
嘘である。
彼がつけているのは最高級の香水だ。
だが、その購入資金が「王室予算」の「雑費」から不適切に捻出されていることを、私は前世の記憶で知っている。
国民の税金で買った香水など、安物以下だ。
「き、貴様……!」
エドワード様はわなわなと震え、握り拳を作った。
だが、衆人環視の中で婚約者を殴るわけにはいかない。
彼は顔を真っ赤にして、捨て台詞を吐いた。
「もういい! 勝手にしろ!」
彼は踵を返し、荒々しい足取りで会場の奥へと消えていった。
おそらく、いつものように取り巻きたちに慰められに行くのだろう。
あるいは、この時期すでに忍び会っていた男爵令嬢ミエラの元へ向かったのかもしれない。
(大成功ね)
私は心の中でガッツポーズをした。
これで「王太子を蔑ろにする傲慢な女」という評判が立つ。
あと数回繰り返せば、向こうから婚約破棄を言い出してくるはずだ。
私は扇を閉じ、給仕からグラスを受け取った。
勝利の美酒を味わおうとした、その時だ。
「素晴らしい演技だったね」
不意に、横から声をかけられた。
ビクリとして振り返る。
壁際の柱の影に、一人の青年が立っていた。
黒髪に、夜空のような濃紺の瞳。
口元には穏やかな笑みを浮かべているが、その目は笑っていない。
第二王子、ルシアン・ヴァルドア。
エドワード様の異母弟であり、王位継承権第二位の人物。
かつての人生では、ほとんど関わりのなかった相手だ。
彼は常に兄を立て、目立たないように影を潜めていたから。
「……ルシアン殿下。ご挨拶が遅れましたわ」
私は動揺を隠し、淑女の笑みを貼り付ける。
だが、彼は私の顔を覗き込み、楽しげに囁いた。
「いいや、挨拶なんてどうでもいい。それより、今の君の震え。……面白かったよ」
「震え、ですか?」
「ああ。あんなに堂々と兄上を罵倒していたのに、扇を持つ指先だけが白くなるほど力が入っていた」
心臓が跳ねた。
見られていた。
恐怖と緊張を隠すために、必死で扇を握りしめていたことを。
「無理をしているようには見えなかったけれど、本心でもなさそうだ。……君は一体、何を企んでいるの?」
ルシアン様が一歩近づいてくる。
その瞳の奥にあるのは、獲物を見つけた狩人のような光だった。
まずい。
この男、ただの大人しい第二王子ではない。
私の知る「未来」の情報にはない、得体の知れない気配がする。
「企むだなんて人聞きが悪いですわ。わたくしはただ、自分の価値に見合う振る舞いをしたまでです」
私は精一杯の虚勢を張り、彼から視線を逸らさずに言い返した。
すると、彼はきょとんとした後、喉を鳴らして笑った。
「ははっ、自分の価値、か。いいね、その強気な瞳。兄上の隣にいるときの死んだ魚のような目より、ずっと魅力的だ」
彼は私の手を取り、指先にそっと唇を落とした。
それは王族としての儀礼的なキスではなく、もっと親密で、熱を帯びたものだった。
「これからの君の舞台、特等席で見せてもらうよ。アリア嬢」
その言葉は、まるで宣戦布告のようでもあり、甘い誘惑のようでもあった。
私が呆然としている間に、彼はひらりと手を振り、闇に溶けるように去っていった。
残された私は、熱くなった指先を反対の手で握りしめる。
想定外の事態だ。
王太子に嫌われる計画は順調だが、なぜか第二王子に目をつけられてしまった。
これが吉と出るか凶と出るか。
まだ誰にも、私自身にもわからない。




