第九話 春休み、きみとの距離が変化した(小森春香視点)
主な登場人物
小森春香:高校二年生。凄く穏やかで、ほんわかした空気をまとった女子。何事にも一生懸命で、とても優しい。あまり自分の意見を言わないので、色々と人から頼まれがちな性格。料理が得意。
村上健斗:高校二年生。涼しい顔をして、実は独占欲強めの不器用な男子。春香を前にすると、執着心が凄く、嫉妬深くなってしまう自分に少し戸惑っている。
森本修弥:高校二年生。春香の幼馴染で健斗の親友。優しくて頼り甲斐がある。彼女の京子のことを溺愛している。
木下京子:高校二年生。春香とは別の高校。頭が良く、進学校に通っている。春香と修弥の幼馴染で、修弥の彼女。
本当にいろいろな出来事に満ちた二年生を終え、春休みを迎えた、ある日のこと。
昼過ぎに村上くんから届いたメッセージを見て、胸が一気に高鳴った。
『良かったら今度会う日、うち来ない?』
え……、うちって……家、だよね…?
私は一度スマホを置いて、心臓を落ち着かせようと深呼吸した。
村上くんの、家……。
もしかして家族の方にも挨拶できるのかな。
うわぁ……、それ凄く緊張するな。でも嬉しい。
『うん、行きたい』と返すだけで、手が震えた。
そして、村上くんの家を訪れる日が来た。
チャイムを押す瞬間、緊張でお腹がきゅっとなる。
ドアが開き、村上くんが顔を見せる。
「早かったね、迷わなかった?どうぞ」
その声だけで心臓が跳ねた。
学校とは違う、家という空間で見る彼は、なんだか大人びて見える。
「お、お邪魔します……」
「あ、今日、家族いないんだ。だから畏まらなくて大丈夫だからね」
「えっ……あ……、そうなんだ」
ちょっと拍子抜けしたような、それはそれで、逆に余緊張する様な、なんともいえない気持ちになる。
「こっち。俺の部屋」
案内されて部屋に入ると、ふわっと、爽やかな香り香りが漂ってくる。
わ……、村上くんの匂いだ。
胸の奥がぎゅっとして、自分でも驚くくらいどきっとした。その時、
「……あ」
村上くんが戸惑ったような声を出した。
「どうしたの?」
「……ごめん、俺の部屋、ソファーとか座布団とか無くて」
「え、全然気にしないよ」
「いつもは床に直接座るか、ベッドをソファ代わりにしてんだ。床硬いし、……気にせずベッドに座って。春香が嫌じゃなければだけど」
「女の子呼んだ事無かったから今まで気にした事なかった」と、申し訳なさそうな顔でそう言う彼に、女の子呼んだ事無いんだ、となんだが嬉しい気持ちがじわじわと胸に広がってしまった。
「うん、嫌な訳無いよ」
そう言うと、村上くんはほっとしたような、小さな笑みを浮かべた。
「飲み物入れてくる。座って待ってて」
「ありがとう」とお礼を言った後、部屋にひとりになり、ベッドの端にそっと腰掛けた。
はぁ……どうしよう……緊張するな……。
ドキドキしながら周囲を見回す。
村上くんの部屋は整っていて、余計なものがほとんどない。
スッキリしてて、清潔感があって、すごいなぁ、と感心した。
落ち着いた色の家具に、教科書と参考書、そして小さな本棚。本棚には卒業アルバムも置かれている。
中学校の頃の村上くん、見てみたいな……。
そんなことを考えていると、ドアが開いた。
「はい、ココア。熱いから気をつけて」
「あ、ありがとう。いただきます」
マグカップを受け取って、そっと口をつける。
甘くて、温かくて、緊張で固まっていた体がゆっくりと柔らかくなっていく。
村上くんが、自然と私の隣に腰掛けた。
近い。肩と肩が触れそうなくらい近い。
「……落ち着いた?」
「うん。甘い飲み物って、何かほっとするよね」
すると、ふっと笑われた。
「春香、緊張してんの丸わかり」
「だ、だって……初めてだし……」
「そうだね。来てくれて嬉しい」
その一言だけで、胸が温かくなった。
「私も来れて嬉しいよ。凄く綺麗な部屋で、びっくりしちゃった」
「そ?なら良かった。……って言っても、本当は春香が来るからと思って、頑張って綺麗にしただけなんだけどね」
そう言ってちょっと照れ臭そうに笑う彼がどこか可愛く感じた。
「ふふ、そうなんだ、わざわざありがとね」
そして、さっき気になった事をお願いしてみる。
「……ねえ、本棚に置いてある卒アル、見せてもらってもいい?」
「え、いいけど……」
「やった。中学校のころの村上くん、見てみたかったんだ」
そう言うと、村上くんは本棚から卒アルを取り出して渡してくれた。
一緒にページをめくると、中学生の村上くんの姿が写っていて。
今より少し幼くて、髪も短くて、笑顔があどけない姿の村上くん。
「……かわいい」
そう言うと、村上くんがちょっと不服そうな声を出した。
「えっ、可愛い?」
「うん。今よりも幼くて可愛いよ」
「うーん……。可愛いって言われるの、あんまり嬉しくないかも」
「えっ、嫌なの?」
すると、ちょっと考えた顔をして、
「嫌ってほどじゃないけど、……かっこいいって思われる方が嬉しいかな」
そう返してきた。
「あはは……もちろん、かっこいいよ。すごく。でも、可愛いなとも思っちゃって」
「もう……」
ちょっと拗ねたような表情が、また可愛いと思ってしまった。
「春香の卒アルも見たい」
「え!? わ、私の?」
「うん。見たい。絶対可愛いでしょ。……あと、俺が知らないのに修弥が知ってるっていうのも、なんかムカつくから」
「え、な、なんで修ちゃん?」
「……なんでも」
「?……あ、でも、見せるのは全然いいよ。じゃあ……今度、うちに来た時に、見せるね」
唐突に出てきた修ちゃんの名前を不思議に感じつつ、そう言った。すると、村上くんは嬉しそうな声を出して言った。
「家、行ってもいいんだ?」
「うん、もちろん!」
私が言うと、彼は優しく目尻を下げて、嬉しそうに笑ってくれた。
その顔があまりにも柔らかくて、胸がぎゅっと掴まれた。
……好き。
そう思った途端、視線を逸らすことができなくなっていた。
「……春香」
村上くんに名前を呼ばれた。
その声が、いつもより低くて、甘さを含んでいて。
「あっ、ご、ごめ……」
誤魔化すように俯いたのに、顎にそっと触れられて、顔を上げさせられる。
近い。
距離が急に縮まって、香りが混ざる。
呼吸がぶつかって、胸の奥がじわりと熱くなる。
村上くんの目が、私だけを映している。そっと唇が触れた。
最初は確かめるように、浅く。
ちゅ、ちゅ……と啄むだけのキス。
けれど、すぐにそれは変わった。
逃がさないように、求めるみたいに。
触れている時間が長くなって、熱が増していく。
腰に回された手に、力がこもる。
背中を撫でる指が、少し震えているのが分かった。
私を見つめる熱い瞳から目を逸らさなくて、彼の気持ちが、言葉にしなくても、伝わってきた。
そのまま身体が傾いて、
次の瞬間、ベッドに押し倒されていた。
乱れた息が、すぐ耳元で聞こえる。
「春香……」
名前を呼ぶ声が、掠れている。
「……触りたい」
その一言に、胸が大きく跳ねた。
嫌じゃない。
むしろ、嬉しくて、好きで、胸がいっぱいで。
でも。
本当に一瞬だけ。
あまりにも真剣で、必死で、余裕のないその表情に、体が強ばってしまった。
「……待って……」
思わず、そう口に出た。
その瞬間。
村上くんの動きが、ぴたりと止まる。
はっとしたように目を見開いて、数秒、何かと必死に戦うみたいに唇を噛んだあと、ゆっくりと私から離れた。
「……ごめん」
声が低く、苦しそうだった。
「がっついた。……怖かったよな」
そう言って笑おうとするけれど、その表情は全然穏やかじゃない。
「ち、違うの。嫌じゃ……」
慌てて言いかけた私の言葉を、静かに遮る。
「今日はここまでにしよっか。……送るよ」
優しい声。優しい手。けれど、その目は、どこか辛そうに見えた。
家までの帰り道、私は村上くんの横顔がまともに見られなかった。
何か言いたいのに、言葉にならない。
どうして、怯んじゃったんだろ……。
相手の家だから?距離が急に近づいたから?初めてのことだっただから?
わからない。ただ胸が締め付けられて、歩くたびに自分の心臓の音が響くようだった。
「じゃあ、……また」
「……うん」
少しぎこちないまま、その日は別れた。
そして春休みが終わり、私たちは三年生になった。
クラス替えで、村上くんとも修ちゃんとも、クラスが離れてしまった。
そしてクラスが離れた村上くんに、どこか以前よりも距離を置からているように感じた。
落ち着いた顔。何も変わっていないような態度。
他の人だと気づかない程度の些細な変化。だけど、私には分かってしまった。
あの日、怯んでしまった一瞬が、二人を少しだけ遠ざけてしまったのだと。




