第八話 恋人同士、ドキドキな時間(小森春香視点)
主な登場人物
小森春香:高校二年生。凄く穏やかで、ほんわかした空気をまとった女子。何事にも一生懸命で、とても優しい。あまり自分の意見を言わないので、色々と人から頼まれがちな性格。料理が得意。
村上健斗:高校二年生。涼しい顔をして、実は独占欲強めの不器用な男子。春香を前にすると、執着心が凄く、嫉妬深くなってしまう自分に少し戸惑っている。
森本修弥:高校二年生。春香の幼馴染で健斗の親友。優しくて頼り甲斐がある。彼女の京子のことを溺愛している。
木下京子:高校二年生。春香とは別の高校。頭が良く、進学校に通っている。春香と修弥の幼馴染で、修弥の彼女。
クリスマスイブに村上くんと付き合い始めた。
恋って不思議だ。世の中は特に何も変わっていないはずなのに、その日から何故か、これまで見ていた周りの景色が、今までよりもずっとキラキラして見える。
翌日のクリスマス当日は、村上くんも私も、それぞれ別の用事があった。
村上くんはコンビニのバイト。クリスマスは凄く忙しくて、村上くんが働いているコンビニは、イブか当日どっちかは、よほどの事がない限り、入らないといけないらしい。
私はというと、小さい頃から親戚の叔父夫婦が経営しているお惣菜屋さんを手伝っていて、高校になってからは週に二、三回ほど、バイトの様な形で働いているのだけど、その店でクリスマスメニューを大量に作るから手伝ってと頼まれていた。結局その日は、夕方までお惣菜を作って過ごした。
夜には家族と、叔父さんと叔母さんと、その日一緒に駆り出されていたいとこたちも一緒に、クリスマスのご馳走をみんなで食べて過ごした。
だけど、事あるごとに昨日の村上くんとのやりとりを思い出して、ニヤけてしまうのを必死に堪えなきゃいけなくて大変だった。
夜、村上くんから『今バイト終わったよ。改めて、これからよろしくね』って連絡が来た。
丁度、私も送ろうと思ってたところだったから、凄く嬉しい気持ちになった。
なんて返そうかなってちょっと考えて、『バイトお疲れさま。こちらこそ、よろしくね♡』と打った。
打ってから、ハートはちょっと恥ずかしいなと思い直して、結局消してから送った。
でもすぐに、やっぱりちょっと素っ気ないかもと思って、ゆるいひよこがよろしくね♡って言ってるスタンプも一緒に送った。
すぐに既読が付いて、『かわいい』と返ってきて、思わずふにゃ、と口元がニヤけてしまった。
ふへへぇ……送って良かったなぁ。
京ちゃんに一番に報告したいと思ったけれど、クリスマスは修ちゃんと過ごすって言ってたから二十六日の夜に報告の電話をした。
電話が繋がってすぐに村上くんと付き合えたことを伝えた。
『おめでとう。本当に良かったねぇ!』
と、まるで自分のことのように喜んでくれる声に、胸の奥からじんわり嬉しさが溢れてくる。
『ついに春香にも恋人ができちゃったかぁ……。でもさ、恋人ができても、私のこともこれまでと変わらず構ってね?息抜きの電話、これまでみたいに、してもいい……よね?』
電話越しに少しだけ寂しそうに甘える京ちゃんの声が聞こえて、私は思わず笑ってしまった。
「それは私の台詞だよ……!京ちゃんこそ、私のこと見捨てないでね?これからもいっぱい相談しちゃうから。……頼りにしてるんだからね?」
そう言うと、受話器の向こうで京ちゃんがふわっと笑う気配がした。
『なにそれ。そんなの、もちろん良いに決まってるじゃない!春香が幸せなら、私も嬉しいの。困ったときはいつでも言ってね。何でも聞くからさ』
その声は頼もしくて、とても温かくて、胸にじんと染みた。
京ちゃんがずっと味方でいてくれること。そして、村上くんとの関係を心から応援してくれていることが、凄く嬉しかった。
新年に入って以降も、村上くんはバイトを入れていた。
『シフト希望を出したときは、まさか春香と付き合えるなんて思ってもみなかったから、三が日もぜんぶ出勤で出しちゃったんだ。せっかく付き合えたんだから、初詣とか行きたいのに……悔しい』
夜の電話で、電話越しに本当に悔しそうにそう言う村上くんが、ちょっとかわいいなと思ってしまった。
「ふふ、大丈夫だよ。来年、……は、この時期、忙しいかもしれないけど、それ以降だって初詣は毎年行けるんだし。今年行かない分、未来の楽しみが増えたって思お?」
言ってから、まだ付き合って数日しか経ってないのに、ずっと先の未来の話をするのってちょっと重いかも?……と少し不安になってしまった。
だけど村上くんは、
『……未来の楽しみ、かぁ。うん、いいね。春香のそういう考え方、ほんと、……好き』
電話越しでも分かるくらい照れた声で、そう言ってくれて、こっちまで照れた。
「わ、私も……村上くん、好き」
なんとかそう返して、電話を切った。
電話越しに言われた『好き』って言葉を反芻してしまって、その日はなかなか眠れなかった。
そして冬休みが終わって、三学期が始まった。
これまでも村上くんと時々一緒に帰る日はあったけれど、恋人になってからは、特にお互い用事の無い日は、いつも一緒に下校する様になった。
村上くんと横に並んで一緒に歩くこの時間が凄く好きだった。
付き合ってから、初めて一緒に帰った日。
学校が見えなくなるあたりまでは、これまでと同じ様に、ほんの少し距離を空けて並んで、話をしながら歩いてたんだけど、学校が見えなくなったあたりで徐々に距離が近づいて、歩く速度が遅くなって。
手、繋ぎたいな、なんて思ってしまって。
「……繋ぐ?」
ちょっと照れた風に私を見つめながら、村上くんが手を差し出してくれた。
「う、うん……」
指先が触れた瞬間、胸の真ん中が小さく跳ねる。
ぎゅっと握り返すと、村上くんも同じくらいの力で握り返してくれた。その繋いだ手が少し揺れて、歩くたびに指と指がこすれて、くすぐったい。
「手、繋ぐの、まだ慣れない?」
「……うん。…けどね……」
「けど?」
「凄く、安心する」
恥ずかしいけど正直な気持ちを言ったら、村上くんが小さく笑った。
「うん、俺も」
その一言に、また心臓がぎゅっとなった。
映画デートに行った日。
前から気になっていた恋愛映画で、私がずっと見たかった映画。
でも村上くん、恋愛映画興味ないかも、って思ったけど、「いいね、見よう」ってあっさりと言ってくれた。
「せっかくだし、ポップコーンも買おっか」
売店の前でそう言われて、私は嬉しくて目を輝かせてしまった。
「う、うん……!」
「春香、嬉しそう。ポップコーン好きなの?」
クスッと笑いながらそう聞かれて、
「うん、ポップコーンも好きなんだけど。……けど、それよりも、シェアポップコーンを彼氏と買うって事にずっと憧れてて……。だから叶って嬉しい」
正直にそう言うと、
「ふはっ、……何それ、かわいい」
と返されて、なんだかめちゃめちゃ恥ずかしくなってしまった。
ポップコーンとジュースを買って、二人並んで座席に座る。
大きなカップに入ったポップコーンを二人で抱えて席に座ると、映画が始まる前から心臓が変な鼓動をして落ち着かなかった。
映画が始まって、見ながらポップコーンに手を伸ばす。
たまたま同じタイミングで伸ばした手の指先が、トンと触れた。
ほんの一瞬のことなのに、触れた指先が熱を持って、意識がそっちに持っていかれてしまった。
だけど映画が進んでいくと、やっぱり映画に集中して。
感動的な場面で涙がにじんでしまって、それに気づいたのか村上くんが、静かにハンカチを差し出してくれた。
映画館を出たあと、まだ余韻が残ったまま、近くのカフェで感想を言い合った。
「最後の、あのシーン、……すごくよかったよね……!」
そう言うと、村上くんはちょっと困った様に言った。
「うん。でも俺、正直、映画にあんまり集中出来なかったかも……。春香があそこまで泣くと思わなかったし」
「うん、泣いちゃった。……ハンカチ、ありがとね……」
「……どういたしまして。泣いてるの、可愛いって思ってた」
照れ臭そうにそう言われて、なんだか恥ずかしくなってきて、少し小さくなってしまった声で返す。
「……もう。村上くん、本当に映画に集中してなかったでしょ」
「うん、だからそう言ったじゃん。……でも仕方無いと思うよ。隣に春香いるんだし……」
顔を赤らめて、開き直ったような口調でそんなことを言われて、私は恥ずかしさに負けて、目をそらしてしまった。
「手が当たった時もさ、あのまま繋ぎたいの我慢するのが大変で……正直、映画どころじゃなかったし。……映画って、もしかしてあんまりデートに向かないのかな?」
真面目な顔でそう言ってる村上くん。
「……映画はデートの定番だと思うよ……?」
私は真っ赤な顔で、そう答えるのが精一杯だった。
お店を出て、駅までの道を手を繋いで歩く。
夕暮れで空がオレンジ色に染まっていて、人通りが少しだけ落ち着いていた。
「……春香」
「なぁに?」
「……ちょっと公園寄ってかない?」
「うん、そうしよっか」
今日が凄く楽しかったからまだ離れがたくって、二人で、ゆっくりした速度で公園までの道を歩いた。
昼間は子どもたちの元気な声が響いている芝生広場は、今は人気がなくてとても静かで、穏やかな空気が満ちていた。
ふと立ち止まった村上くんが、私の頬にそっと触れた。
その触り方で、彼が何をしたいと思っているのかが伝わってきて、呼吸が浅くなる。
ゆっくりと近づいてくる顔。少し目を伏せたまつげが目の前に迫る。
私はそっと目を閉じた。
ちゅ、と唇が触れる。
柔らかくて温かい唇の感触。触れた瞬間、胸が溶けそうになった。
唇がゆっくりと、名残を惜しむ様に離れて。
「……帰りたくなくなるなぁ」
そんな弱い声、反則だ。
「わ、私も……」
答えたら、村上くんが小さく笑って、今度は額をこつんと合わせてきた。
近すぎて、息が触れあって、どうしようもないくらい胸が苦しくなった。
バレンタインには、生チョコを作った。
少しでも美味しいものを渡したくて、デパートを梯子してまわって、クーベルチュールチョコレートを探した。やっと見つけたときは、宝物を手に入れたみたいに胸が高鳴った。
そして迎えたバレンタイン当日。
学校からの帰り道、村上くんはどう見ても、ソワソワわくわくしてるのが隠せてなくて。
その姿が可愛くて、なんだか胸があったかくなった。
公園に寄り道して、並んで座ったベンチで、そっとチョコを差し出した。
「……村上くん、大好き」
そう言うと、村上くんはぱっと顔を上げて、目が本気で嬉しそうに輝いた。
「今、食ってもいい?」
そう聞かれたから、
「う、うん、もちろん。どうぞ」
緊張しつつそう答えた。
村上くんが、一つだけ袋から取り出して口に運ぶ。
美味しいって思ってくれるかな……。味見してちゃんと美味しかったから、大丈夫だと思うんだけど……、とドキドキしてたら、
「……めちゃくちゃ美味い……!」
彼が心の底から喜んでる声でそう言ってくれた。嬉しくて胸がいっぱいになった。
「残りは家で大事に食べよ」
そう言って、宝物みたいに丁寧に鞄へしまう姿が、愛おしくてちょっと泣きそうになった。
そのあと、彼がふいに身体を近づけてきて、そっと頬に手が触れて、そして唇を奪われた。
口の中に、まだチョコレートの甘さが残っていて。
混ざり合う味がやけに鮮明で、生々しくて、どきどきして……。
顔が熱くなって、まともに彼を見られなかった。
チョコより甘いキスなんてあるんだ、って初めて知った。
何もかもが初めてで、ひとつひとつことにドキドキして。
これで大丈夫かなって、不安になってばかりなのに、それ以上に、胸がいっぱいになるくらい幸せで。
恋をすると、世界がまるごと違って見えるんだってことを、初めて知った。




