第ニ話 君との距離が縮まる日々に(村上健斗視点)
主な登場人物
小森春香:高校二年生。穏やかで、ほんわかした空気をまとった女子。
村上健斗:高校二年生。春香が淡い片思いをしている男子。
森本修弥:高校二年生。春香の幼馴染で健斗の親友。
木下京子:高校二年生。春香とは別の高校。頭が良く、進学校に通っている。春香と修弥の幼馴染で、修弥の彼女。
席替えから三日が経って、春香と、最近やけに目が合うようになった。
……いや、正確には、俺が彼女のことを見てるからなんだけど。
席替え初日、数学であんな恥ずい失敗をしてしまったけれど、それをきっかけに彼女と話せる様になったと思うと、あの失敗も悪い事ばかりでは無かったな、と思う。
……や、よりにもよって、まともな初会話があんな間抜けなものになってしまったのは、本当に不本意なんだけども。
あのとき「春香」って名前で呼んだ瞬間、彼女が目を丸くして、耳まで赤くなって。
その顔が、やけに鮮明に焼きついて離れない。
でも、俺があの子のことを意識するようになったのは、あの日だけが理由じゃない。
もっとずっと前から、俺は彼女のことを気になってた。
初めて春香を見たのは、一年の五月。登校時間の電車の中だった。
混雑した車内で、前に立っていた、別の高校の女子がふらっと揺れて、壁に手をついた。
体調が悪そうで、顔も青白かった。
その前に座っていたのが、リボンがまだ新しくて綺麗なままの、俺と同じ学校の一年の女子。
それが春香だった。
彼女は迷わず、すっと立ち上がって「ここ、どうぞ」って声をかけた。
ほんとに自然に、そうするのが当たり前ですみたいな顔で。
そして、席を譲った他校の女子に心配そうに話しかけてた。口ぶりから、前からの知り合いとかじゃ無いみたいだったけど、本当に親身になって心配してた。
相手の子も、春香の態度に安心して、気を許してるのが分かった。
結局、体調を優先して電車を降りる事にしたらしいその子に付き添って、彼女も一緒に次の駅で降りて行った。
その後ろ姿を見ながら、ああいうこと出来る子いるんだって驚いて、凄く印象に残った。
そして次に彼女を見たのは、その二週間後のこと。
その時のことを春香は覚えてないみたいだけど、たった一言だけど、あの時初めて彼女と言葉を交わしたから、俺は、はっきりと覚えてる。
渡り廊下でプリントが散乱して、大惨事になっていた時だった。
たぶん誰かが落としたものを、風が吹き飛ばしたんだと思う。紙が舞い上がって床に散らばり、何人かの女子が慌てて拾っていた。
その中に春香が居た。ちょっと焦った様子で、ひざをついて、少しでも早く拾おうとしている。
落としたのは彼女なのかな、と思った。
だったら手伝ってあげたいな、と思って、俺も周りに落ちてる紙を数枚拾って彼女に差し出した。
すると、春香がぱっと顔を上げて、ふわりと微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑顔がめちゃくちゃ可愛くて、胸の奥がぞわっとして、変な感じがした。
「どういたしまして」
返した声が上擦ってないか、不安になった。
一緒にいた友達が「ごめん、ほんとごめんね!」と焦った声を上げた。
だけど春香は、「ううん。全然大丈夫だよ。災難だったね」と言って、自分が拾ったプリントをきれいにまとめ、呆れた様子も見せずに、優しく笑ってその子に渡していた。
その姿を見て、ああ、この子は当たり前の様に、人の困り事を自分の事の様に心配出来る子なんだな、と思った。
それからだと思う。
気がつくと、目で追うようになっていた。
目立つタイプの子じゃないけれど、春香はいつも誰かのために動くことばっかりしてた。
掃除当番を代わってあげたり、道具の準備を手伝ったり。自分のことは当たり前の様に後回しにして、いつも他人の事を優先して動いてる子だった。
そんな彼女が気になったし、見ていてちょっと心配にもなった。
そんな風にいつも目で追ってしまっていたから、あの子が修弥と仲がいいのは知っていた。
修弥と俺が一緒にいてるときに一度、春香が話しかけに来たこともあった。
柔らかな物腰、穏やかな話し声、優しい笑顔。
彼女のひとつひとつの動作が、なんかすごく可愛いなって思った。
そういった全部が、なんかたまらなく愛しくて、まるで自分だけの宝物を見つけてたみたいな気持ちになった。
あの子の可愛いところは、俺だけが知ってたらいいのに。
いつしかそんな風に思うようになっていて、そんな自分に驚いた。
彼女に出会う前は、自分がそんなこと思うようになるなんて、予想もしてなかったから。
二年になって、同じクラスになったときは、めちゃくちゃ嬉しかった。表には出さなかったけど。
そして席替えで、前後になった日。俺は初っ端から恥ずかしい失敗をした。
つい、いつもの癖で修弥に問題を聞こうとして、振り返って。
目の前に、凄く驚いた彼女の顔があって、一気に心臓が跳ねた。
ただ、そのときの春香がまた、めちゃくちゃ可愛かった。
「全然大丈夫だよ」って笑ってくれて、「教えられるかも」って言って、身を乗り出して問題を教えてくれた。
すげえ近い。声が優しい。必死に教えてくれる仕草が可愛い。……シャンプーかな?なんか、ふんわりいい匂いがする。
落ち着こうとしても無理だった。
そして、問題が解けたとき、春香がほんとに嬉しそうに笑ってくれた。
あれで、完全に落ちた。
席が近いって最高だ。後ろを向けば彼女が居るし、自然と話す機会が増える。
「おはよう。今日だいぶ熱いよな」
「うん。まだ六月なのに、もう夏だよね」
「昨日の課題、出すのって今日だっけ?」
「あっ……、今日だ!やばっ、急いでやらなきゃ!」
そんな小さなやり取りひとつひとつが、いちいち嬉しい。
そう思ってるの、多分俺だけだろうけど。
そんなある日、春香が消しゴムを落とした。
コロコロッと転がって、俺の足元まできた。
拾ってあげようと手を伸ばした瞬間、春香の手も同じタイミングで伸びてきて、指先が触れた。
途端、ビクッと肩が跳ねた。
「……あ、ごめん!」
春香が慌てて手を引っ込める。耳の先がほんのり赤い。
「いや、俺こそ」
なんでもないふりをしたけど、心臓は馬鹿みたいに跳ねてた。
それに、触れた瞬間、春香が少し震えたのを俺は見逃さなかった。
恥ずかしそうに目をそらしたのも。
なんで震えてたんだろう。
なんで照れてたんだろう。
俺と同じ理由だったらいいのになって思った。
期待なんてしちゃだめなのに、勝手に期待してしまう自分がいる。
春香が俺に向けてくれる小さな笑顔。
名前を呼ぶときのちょっと緊張したような顔。
分からないところを教えてくれるときの真剣な眼差し。
その全部を、誰にも渡したくないと思ってしまった。
そうして一か月があっという間に経過して、次の席替えで彼女との席は離れてしまったけれど、その時には俺たちは自然に話せるくらいには仲良くなっていた。
だけど、夏休みに入ってから、俺は後悔することになる。
一学期のうちに。できれば、六月のあの頃にさっさと連絡先を交換しておくべきだったと。
この時の、彼女との距離が縮まっていく日々にただただ浮かれていた俺は、夏休みをあんなにもモヤモヤと過ごすことになるなんて、まだ知るよしもなかった。




