第十ニ話 君と過ごす幸せを(村上健斗視点)
※十二話は、九話〜十一話の健斗視点のお話です。
※九話で春香が健斗の家に行った時の、健斗側の視点から始まります。
主な登場人物
小森春香:高校二年生。凄く穏やかで、ほんわかした空気をまとった女子。何事にも一生懸命で、とても優しい。あまり自分の意見を言わないので、色々と人から頼まれがちな性格。料理が得意。
村上健斗:高校二年生。涼しい顔をして、実は独占欲強めの不器用な男子。春香を前にすると、執着心が凄く、嫉妬深くなってしまう自分に少し戸惑っている。
森本修弥:高校二年生。春香の幼馴染で健斗の親友。優しくて頼り甲斐がある。彼女の京子のことを溺愛している。
木下京子:高校二年生。春香とは別の高校。頭が良く、進学校に通っている。春香と修弥の幼馴染で、修弥の彼女。
俺の部屋で、春香が俺の中学の卒業アルバムを覗き込みながら、くすくす笑っている。
その姿を見ていたら、ふと、どうしても口にしたくなった。
「春香の卒アルも見たい」
そう言った時、自分でもちょっと突然すぎたかなと思った。
でも、だって、知りたい。これまでの春香も、これからの春香も、全部。
「え!?わ、私の?」
「うん。見たい。絶対可愛いでしょ」
それに、ただ純粋に“見たい”だけじゃ、足りない理由もある。
「あと、俺が知らないのに修弥が知ってるっていうのも普通にムカつくから」
それが純粋じゃ無い理由。
……別に修弥が悪いわけじゃない。
春香と修弥が仲いい幼馴染なんだって事は知ってるし、あいつには溺愛してる彼女がいて、人の彼女に手を出すような奴じゃないって事ももちろん分かってる。
でも。
春香が修弥に向ける笑顔。あの自然な距離感。「修ちゃん」って呼ぶ、あの可愛い声。
俺の名前は、まだ呼んでくれないのに。
春香が「修ちゃん」って呼んでいるのを聞くたびに、胸がちくりと痛んで、悔しくて、そんな風にいちいち嫉妬してる小さな自分が情けなかった。
その事を伝えれば、きっと彼女は名前で呼んでくれるんだろう。でも、名前で呼んで欲しいって、ただその一言が、ずっと言えなかった。
付き合い出してから、ちょっとは思っている事を言えるようになったと思っていたけれど、結局ずっと変われていないままの自分が嫌になる。
「見せるのは全然いいよ。じゃあ……今度、うちに来た時に、見せるね」
“うちに来た時”
そう言われた瞬間、嬉しくて堪らなかった。
「家、行ってもいいんだ?」
「うん、もちろん!」
つい確認してしまった。そしたら笑顔で頷いてくれて、胸の奥がじんわり熱くなった。嬉しくて、どうしようもなくて。
頷いてくれた後、そのまま春香がじっと俺を見つめていて、胸の奥が一気に熱くなった。
さっきまで、何でもない顔で話してたはずなのに。
目が離せなくなって、心の全部を持っていかれた。
「……春香」
名前を呼んだ瞬間、彼女の肩がピクリと跳ねて、恥ずかしそうに視線を下げた。
その姿に簡単に煽られる。彼女の顎に触れて、上を向かせて、そっと唇に触れた。
柔らかい唇に、ぎりぎり残っていたなけなしの理性があっという間に溶ける。
春香が心を許してくれてるのが全身から伝わってきて、それが凄く嬉しくて、もっと欲しくなった。
……かわいい。好きだ。
優しく触れるだけのつもりだったのに、気づけば、それ以上を求めていた。
大切にしたいって思っているのに。
大事にしたいのに、守りたいのに、胸の奥から湧いてくる感情が荒くて、強すぎて。
ずっと俺だけを見てほしい。俺だけを求めて欲しい。
俺、今、変だ。
腰に回した手に力が入って、背中を撫でる指が震えているのが、自分でも分かった。
好きで、好きで、どうしようも無くて。
衝動のままに、彼女のことを押し倒していた。
目の前に頬を赤らめて少し瞳を潤ませた春香の顔がある。
「春香……」
愛しくて堪らなくて、理性なんて擦りきて。
「……触りたい」
ただ、目の前の春香だけが欲しくて仕方なくて、余裕も無く、彼女の身体に手を伸ばして、そして、
「……待って……」
その一言で、はっとした。
頭の中で、何かが音を立てて冷えていく。
……ああ、やってしまった。
怖がらせた。
凶暴なくらいの俺の気持ちだけを、無理やり押し付けようとした。
唇を噛んで、必死に感情を押し込める。
この衝動ごと、全部。
「……ごめん」
謝らずにはいられなかった。
がっついた。余裕なんて全くなかった。
彼女の前で、ちゃんとしていたかったのに。
「今日はここまでにしよっか」
そう言いながら、胸の奥がきしむ。
離れる選択が正しいって分かってるのに、離れるのが、こんなに辛いなんて。
帰り道、春香の横顔を見られなかった。
今、何か言ったら、また自分を抑えられなくなりそうで。
好きすぎる。
それが、こんなにも怖いなんて思わなかった。
彼女を傷つけたくない。本当に、大事にしたい。
それなのに、彼女のことになると、自分が信用できなくなる。
クリスマスイブのあの日約束したように、彼女のことを何よりも誰よりも、大切にしたいって思ってる。
……それなのに、意思が弱すぎる自分に辟易した。
だけど、胸に残った熱は、どうしても消えてくれなかった。
別れ際の笑顔がぎこちないのが分かって、胸の奥がじりっと痛んだ。
どうしたらいいのか、分からなかった。
本当はもっと触れたい。でも、触れたらまた怯ませてしまうかもしれない。
その答えを見つけられないまま、俺たちは春休みを終えた。
そして三年生になり、春香とクラスが離れてしまった。
寂しいけれど、冷静になるには丁度良いのかもしれないと思った。
春香を目の前にすると、触れられずにはいられないし、触れたら絶対、もっと欲しくなってしまうから。
そんな風に、高校生活最終学年は拗らせた思いを燻らせたまま始まった。
昼休み、修弥とたわいもない話をしていたら、学級委員の女子とその友達が二人で近づいてきて、次の五時間目の化学が第一理科室に移動だと教えてくれた。
「分かった、ありがとう」とお礼を言って、一言二言程度会話をしていた時、ふと、教室の外に視線を感じて廊下を見ると、走り去る春香の姿が見えた。
俺の視線を追って、修弥も春香に気づいたらしく、自然と目が合う。
「修弥、俺に行かせて」
既に春香を追いかけようと動きかけていた修弥が、その言葉でぴたりと足を止めた。そして、ちょっとだけ眉をひそめて、口を開いた。
「……なあ、健斗。三年になってから、お前らちょっとおかしいだろ。クラスが変わっただけって感じじゃねぇよな?……付き合ってりゃ色々あるのは分かるし、言いたくなきゃ、無理に聞かねぇけどさ」
いつになく真剣な口調で続ける。
「でもな、……春香は、俺にとっても京子にとっても、すげぇ大事な奴なんだよ。だから、たとえ健斗でも、……春香を泣かせたら許さねぇからな」
冗談の欠片もない、真面目な顔だった。その表情を見て、胸の奥が少しだけ熱くなった。俺も真剣に修弥に言う。
「うん。……俺、ずっと春香のこと見てたから、分かる」
修弥と木下さんが、どれだけ春香のことを大事に思っているのかも、春香が二人のことをどれほど大切にしているのかも全部、妬けるくらいに、よく知っている。
だけど、それを分かった上で、どうしても言っておきたいことがあった。
「でもな、修弥。春香を泣かしたら許さねぇってのは……お前に言われるまでもねぇよ」
すると修弥は一瞬きょとんとしたあと、驚くほど嬉しそうに笑った。
「だよな!俺もそう思う!」
俺は「うん」と短く頷き、前を向き直る。
「じゃあ、もう行くからな」
「おう。健斗、春香のこと、頼んだ」
その声を背中に受けながら、俺は走り出した。
そして、中庭で立ち尽くす春香の姿を見つけた。
その背中が泣いている様に見えて、焦って咄嗟に腕を掴んだ。
振り返った春香は大きな瞳がうるんでいて、必死に涙を隠そうとしている。
胸がずきんと鳴った。
「……もしかして泣いてる?」
そう聞いたら、彼女は顔を歪めて嘘を言った。
「泣いてないよ」
どう見ても辛そうな表情でそう言われて、胸がツキンと痛んだ。
「泣いてるじゃん。……何で嘘つくの?そうやって嘘つかれると、辛いよ」
言った瞬間、自分でも驚くぐらい声が震えた。
すると春香が顔を伏せて、小さく震えながら言った。
「……だ、だって、村上くん、春休みのあの日から、私と距離取ってるよね?……私の勘違いじゃないでしょう?」
その声に、また胸の奥がぎゅっと掴まれたように痛んだ。
汚い部分を知られたく無くて、咄嗟に何も言えず、吃ってしまう。
すると春香が、まるで堰を切ったように言葉をこぼした。
「……私が、あの時怯んだから。村上くん、愛想つかしちゃったのかなって、……ずっとそればっかり考えちゃって。私が……もっと経験あって、大人だったら違ったのかな……。村上くん、もう私のこと、好きじゃない?」
春香が目からぽろぽろ涙を溢れさせてそんなことを言う。
……違う。そんなわけあるか。
思わず、ため息がこぼれた。
それは呆れでも怒りでもなくて、ただ、何よりも大切なこの子に、そんな風に思わせていた自分が、情けなかったからだ。
そして同時に、全く心配する必要なんて無いのに、愛想を尽かされたかもしれないなんて、そんなあり得ない不安で泣く彼女が、どうしようもなく愛おしくて仕方なかった。
俺の方が自分勝手にがっついて引かれたかもって、不安に思ってたくらいなのに、この子、ほんと……。
「そんな訳ないでしょ」
自分でも驚くほど柔らかい声が出た。
「俺がどれだけ我慢してると思ってるの」
ぽろっと口にでた、本音。
そっと春香の頬に触れると、彼女が涙で濡れた瞳で驚いた様に俺を見つめる彼女と瞳がかち合った。
ほんと、どうしてこんなに、可愛いんだろう。
「え……我慢?」
「そうだよ。……俺、今の関係で、どこまで踏み込んでいいのか分からなくて、ずっと迷ってた」
一言、言葉にしてしまったら、胸の中に燻らせていた本音が一気にあふれ出した。
「……春香のこと、ちゃんと大切にしたいって思ってるのに、実際目の前にしたら、また前みたいに、がっついちゃいそうで……。だから、すげぇ我慢してた」
春香が少し驚いた様にも見える表情で、俺の顔を見てる。
「……それに、名前……。修弥のことは修ちゃんって呼ぶくせに、俺のことはいつまで経っても苗字のままだしさ」
本当に全部言ってしまった。すげえダサい自覚しか無い本音だったから、言うつもりなんて無かったのに。
「……でも、こんなの知られたら、かっこ悪いと思ってたから、ずっと言えなかったけど」
でも全部言ってしまったからか、ずっと緊張していた心が、ほっと解けたような気がした。その時、
「ねえ、……健斗くん」
春香が俺の名前を呼んだ。
思わず息を呑んだ俺を優しく見つめながら、彼女が続ける。
「我慢なんて、しなくていいんだよ。あの日、私ね、……緊張してただけなの。嫌だったとか、そういうんじゃないんだよ。私も、……その……健斗くんに、触れたいし、触れられたいって……思ってるんだからね?」
彼女の言葉に、心ごと俺の全部を包まれたような気持ちになった。
気づけば、彼女を強く抱きしめていた。
「春香の気持ち、知れて本当に嬉しい」
そう言うと、春香の細い腕が俺の背中に回り、ぎゅっと強く抱きしめ返してくれた。
胸の奥が締め付けられる。
俺は応えるように、抱きしめていた腕に力を込め、彼女を見つめた。
すると、熱を帯びた瞳で見つめ返してきて、そっと目を閉じた。
……可愛い。
そのまま彼女の唇に触れかけて、すんでのところで自制した。
だって、今、唇に触れてしまったら、止められる自信なんて、全然無い。
ぐっと衝動を飲み込んで、そっと顔を下げて春香の額にキスを落とした。
途端に彼女が、驚いて目を開けて、何で?と言いたげに俺を見る。
俺は理性と欲望の間でグラグラする心を治める為に低く息を吐いた後、理由を伝えた。
「……唇にしたら、止められそうにないから」
「そっかぁ……」
ちょっと残念そうな小さな呟きが可愛すぎる。
そんなことされたら、もう我慢なんて出来なくて、そっと彼女の頬に触れた。
「でも、今日、放課後迎えに行くから、絶対待ってて」
「……え?」
彼女の戸惑う声がまた愛しくて、思わず笑みが溢れる。
「春香の気持ち知れたのに、何もしないなんて出来る訳ないからね。覚悟しておいてよ。」
そう言うと春香が真っ赤に頬を染めて、ドギマギしながら照れた。
名残惜しく思いながらゆっくりと頬から手を離して、真っ赤になってる顔を見つめたまま続ける。
「春香が逃げても、今日は絶対捕まえるからね」
「に、逃げないもん……!」
「ならいいけど」
彼女がじっと、俺を見つめ返してくる。
そして小さな可愛い声で、呟くように言った。
「……覚悟、しておくね」
ああ、もう、何なのこの子。
……この後絶対、煽った責任とってもらうからね。




