3-30話:絶望の観測者⑤
(ウィル……お前は、一体、何を言っている……?)
薄れゆく意識の底で、オルダは必死に思考を巡らせていた。
掴まれた右腕には、逃げ場のない拘束力が込められている。
装甲の内側にまで食い込む圧力。
関節が悲鳴を上げ、駆動音が不規則に乱れる。
引き剥がそうと全力で力を込めても、びくともしない。
まるで世界そのものに縫い止められているかのようだった。
次の瞬間。
ウィルが、ほんのわずかに手首を捻った。
ピシ……
ピシピシ……。
嫌な音が走る。
そして――砕けた。
ドスン、と鈍い音を立てて、オルダの右腕が砂浜に転がる。
断面から銀色のメルキュリアが噴き出し、瞬く間に砂を濡らしていく。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
視界の端に転がる“それ”を見て、ようやく現実を認識する。
――自分の腕。
ほんの数秒前まで、確かに身体の一部だったもの。
「――ッ……!!」
声にならない悲鳴が喉を締めつける。
反射的に左拳を振り上げた、その刹那。
ウィルはすでにアウロラを抱え、後方へ跳躍していた。
羽ばたきの衝撃波が砂を巻き上げ、オルダの身体を吹き飛ばす。
体勢を崩し、砂浜に叩きつけられるように転がった。
「アウロラ、ひどい怪我だね」
ウィルは彼女を抱きかかえ、まるで壊れ物を扱うように微笑む。
その腕の中で、アウロラは肩口からメルキュリアを流し、小刻みに震えていた。
「君はガデンツァ唯一のΔ型なんだから、もっと考えて行動しないと」
諭すような穏やかな声。
だが、その直前にオルダの腕を砕いた存在の言葉とは、あまりにも乖離していた。
「ご、ごめんなさい……ウルティリウス様……」
アウロラは震える指でロングコートを掴む。
圧倒的な強者に守られる安堵と、支配者を仰ぐ畏怖を宿した眼で、彼を見上げていた。
「撤退だ。このままじゃ君のメルキュリアがもたない。指示は出せそう?」
小さく頷き、彼女は端末を取り出す。
震える指先で撤退命令を送信した。
ウィルは、ゆっくりとオルダへ視線を向けた。
「オルダ。君には世話になったよ」
懐かしむような眼差し。
だがその奥には、氷のような冷たさが沈んでいる。
「ノクティリカの生活の中で、ボクは唯一、君とは分かり合えそうだと思っていた」
一歩、また一歩と歩み寄る。
「いつも冷静で、先を見据えていて……虚構の平和に溺れる連中とは違っていたから」
砂を踏みしめる足音が、やけに大きく響く。
オルダは片腕を失い、全身からメルキュリアを流しながら必死に身体を起こそうとする。
だが、力はもう残されていない。
睨み返すことしかできなかった。
ウィルは背中から、バサリと翼を広げる。
漆黒の羽毛が朝日に鈍く光る。
それはリディナシエの翼とは似ても似つかぬ、神話の悪魔を思わせる禍々しい翼だった。
「これは、ボクからの餞別だよ。このままだと、レミナの修理があっても君は死んでしまうから」
差し出されたのは、かつてウィルが倒したζ型の残骸から回収したパーツ。
黒く光る、キューブ状の見たこともない物体だった。
「エナジーキューブって言うんだ。エナジーコアへメルキュリアを送る中継パーツでね。ここまで綺麗に残っているのは奇跡に近い」
ウィルは軽く屈み、オルダの目の前の砂の上へそれをそっと置いた。
「これを使えば、以前ほどじゃないけど……普通に生活できるくらいにはなると思うよ」
その声音は、あまりにも優しかった。
「また会おう」
にこやかな微笑とともに、翼が大きく打ち広げられる。
突風が砂を巻き上げ、視界が白に染まる。
その中で、彼の姿はゆっくりと宙へ浮かび上がっていった。
アウロラはその胸に抱かれたまま、振り返ることなく遠ざかっていく。
やがて風が止み、砂が静かに地面へ落ちる。
残されたのは、破壊の痕跡と、転がる金属片と――
片腕を失ったオルダだけだった。
オルダは砂に爪を立て、最後の力を振り絞って身体を引きずる。
仲間のもとへ戻らなければならない。
ウィルが裏切り者であるという真実を、皆に伝えなければならない。
だが、身体は言うことをきかない。
視界の端が暗く染まり、警報音が頭の中へ断続的に鳴り響く。
『メルキュリア残量、危険域に突入。活動限界』
それでもオルダは、歯を食いしばり、砂を掴んだ。
(ウィル……)
脳裏に浮かぶ、あの優しい微笑。
いつもと変わらぬ口調と仕草。
(次に会う時は――必ず……)
その想いを胸に刻みながら、オルダの意識は静かに闇へと沈んでいった。
*
砂浜に、別の足音が響く。
荒く息を切らしながら駆け寄ってくる影。
波打ち際を越え、崩れた地形を跳び越え、ただひたすらに走ってきた影。
「……オルダ!!」
ジェンだった。
片膝をつき、倒れ伏すオルダを抱き起こす。
砕けた右腕。
砂に染み込んだメルキュリア。
戦場に刻まれた圧倒的な破壊の痕跡。
すべてを一瞬で理解し、ジェンは歯を噛みしめた。
「……間に合わなかった……」
そのとき、空を覆う巨大な影がゆっくりと旋回する。
ジェンは顔を上げた。
朝焼けを背に、黒い翼を広げる異形の存在。
世界の光を切り裂くように浮かぶ影。
――ウィル。
遥か上空から見下ろす視線と、確かに目が合った。
優しく、穏やかで、底知れなく冷たい微笑。
ジェンはオルダを抱いたまま、拳を握り締める。
「……ウィル……君は一体、何者なんだ……?」
風が吹き抜ける。
黒い翼が大きく羽ばたき、ウィルの姿は雲の向こうへと消えていった。




