3-29話:血針の女王⑤
光が、ゆっくりと収束していく。
エレメイの胸部コアを包んでいた女神の輝きは、朝霧に溶けるように薄れ、やがて静かに消えた。
残されたのは、わずかに上下する胸と、かすかな駆動音だけ。
アルテットは震える手で、そっと彼の頬に触れる。
「……エレメイ?」
返事はない。
だが、止まりかけていたはずの鼓動は、確かに続いている。
ドクン、ドクン――
弱い。
けれど、生きている音だった。
その事実だけで、胸の奥が崩れ落ちそうになる。
「成功だよ」
リディナシエが静かに告げる。
優しい声なのに、どこか遠い響きを帯びていた。
「ただし……完全ではない」
アルテットはゆっくりと顔を上げる。
「覚悟の上だ」
リディナシエは一瞬目を伏せ、慎重に言葉を選んだ。
「この子のコアは致命的な損傷を受けていた。機能を繋ぎ止めるために、記憶領域と感情制御の一部を切り離し、再構成してある」
「……つまり?」
「君のことも……このノクティリカでの思い出も、失われている可能性が高い。加えて、戦闘能力にも影響が出ているだろう」
その言葉は、銃弾より静かで、刃より深く胸に刺さった。
アルテットの呼吸が止まる。
それでも、視線は逸らさない。
「でもね」
リディナシエは続ける。
「すべてが消えたわけじゃない。表層が崩れても、“核”は残っている。いずれまた導かれるはずだよ。君たちはきっと、何度でも惹かれ合う」
「……本当か?」
かすれた声。
「慰めじゃない。私は救える命を繋いだだけ。奇跡を起こせるわけじゃないよ」
アルテットは、眠るエレメイを見つめる。
死の淵にいたとは思えないほど、穏やかな顔。
「……いいんだ」
低く、震える声。
「忘れられてもいい。生きてさえいれば、これから何度だって思い出は作れる」
リディナシエは、アルテットの頬を伝うメルキュリアの涙に気づきながら、あえて触れず、ただ柔らかく微笑んだ。
「君は……かつての私を見ているようだ」
「違う」
アルテットは首を振る。
「私は、エレメイがいないと生きていけない。ただの弱虫だ。あなたみたいに……強くない」
リディナシエは答えない。
ただ、優しい光を一瞬だけエレメイに落とし、静かに翼を広げた。
「私はもう、行くね。このことは誰にも――」
「言わない」
アルテットは顔を上げる。
「あなたを思い出した。――あなたがどんな気持ちで、あの決断を下したのか。あなたはずっと、ずっと、ひとりで……」
言葉が喉で止まる。
踏み込めば、その痛みに土足で触れてしまうと分かっていた。
この女神の成したことは、言葉で触れていい領域を超えている。
そこにあるのは、どうしようもない愛と、罪と、罰。
理解した気になることさえ、図々しいと感じた。
「女神リディナシエ様……いや、リディン様。ご加護に感謝いたします」
真っ直ぐに敬礼する。
リディナシエは、ふっと微笑んだ。
「恋するすべての乙女に、安らぎと、希望と、目映い女神のご加護があらんことを」
ふわり、と白い羽が舞い上がる。
朝日を背に、女神の姿は霧の向こうへ溶けていった。
静寂が戻る。
遠くで、瓦礫が崩れる音だけが小さく響いた。
アルテットは、ゆっくりとエレメイを抱き上げる。
軽い。
あれほど頼もしかった相棒の身体が、今は壊れ物のように感じられた。
「帰るぞ」
返事はない。
それでも構わなかった。
一歩踏み出すたび、足元の銀色の血が朝日に照らされて光る。
その軌跡は、ここで確かに“命を繋いだ証”のようだった。
歩きながら、アルテットはぽつりと呟く。
「次会ったときさ」
眠る顔を見下ろす。
「初対面みたいな顔するんだろうな、お前」
少しだけ笑う。
「その時は、ちゃんと自己紹介してやるよ」
霧の向こうに、中央ラボのシルエットが見えてくる。
戦場が終わる。
けれど――
二人の関係は、ここからまた始まる。
「よろしくな、エレメイ」
朝日が、二人の背中を長く照らしていた。




