3-28話:血針の女王④
霧の中、ルーチェの残骸から立ちのぼる蒸気が、ゆらゆらと揺れていた。
破れた衣服の奥で、小さく無機質な電子音が繰り返される。
――“ガデンツァ”の撤退命令。
戦場の終わりを告げるはずのその音は、あまりにも空虚だった。
アルテットは膝をついたまま、崩れ落ちたエレメイの身体を抱き起こす。
胸部装甲は砕け、心臓部に深く突き立った鎌が鈍く光っていた。
そこから溢れ出すメルキュリアが、彼女の腕を銀色に濡らしていく。
「しっかりしろ……エレメイ、目を開けろ」
応答はない。
「……冗談だろ。お前が、こんな簡単に止まるわけがない」
声が震える。
数え切れない死を見てきた。仲間を失う覚悟も、とっくに終えていたはずだった。
それなのに。
「起きろよ……命令だ」
口にした瞬間、胸が軋んだ。
支配は嫌いだと豪語してきた自分が、今は命令でも何でもいいから彼に生きていてほしいと願っている。
そのとき、エレメイの唇がかすかに動いた。
「……アル、テット……」
「!!」
アルテットは息を呑み、顔を寄せる。
焦点の合わない瞳。それでも確かに、彼は彼女を見ていた。
「しゃべるな。私が絶対に死なせない……!」
涙を拭い、砕けた装甲をこじ開ける。金属片を引き抜き、損傷したエナジーコアを露出させた。
ドクン、ドクン――
弱々しく、それでも確かに脈打つ淡い黄色の光。
その振動が、指先に“命”として伝わってくる。
「好きだ……アルテッ……ト」
にこりと微笑むエレメイ。
その表情は、不思議なほど穏やかで、満ち足りていた。
「じゃあ隣にいろよ……! ずっと、ずっとだ!」
必死にメルキュリアの流出を押さえる。
だが、生温かい銀色の液体は指の隙間からすり抜け、止まらない。
コアには細かな亀裂。
淡い光が、不安定に明滅している。
「止まれよ……! 止まれって言ってるだろ!!」
願いも虚しく、命は地面へと広がっていく。
(また奪われるのか……?また私は、誰も救えないのか……)
歯を食いしばる。視界が滲む。
(神様がいるなら……助けろよ)
やがて、アルテットの指が止まった。
理解してしまったのだ。
ここで彼を救える確率は、限りなく低い。仲間を呼んでも間に合わない。
それなら――
動ける自分が、まだ助かる可能性のある仲間を救いに行くべきだ。
頭では分かっているのに、どうしても離れられなかった。
身体が、言うことを聞かない。
「……たくさん命を奪ってきたくせに、都合いいよな」
誰にも届かない独り言が、霧に溶ける。
アルテットはエレメイの頬に触れたまま、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
戦場の静寂が、やけに長く感じられる。
「私も……大好きだよ」
そう呟き、そっと唇に口づけた。
エレメイの熱が、唇を通して伝わる。
数秒のはずなのに、永遠のように長い時間だった。
――刹那。
バサッ――
空気を震わせる、大きな羽音。
見上げた先、霧を押しのけるように白い光が差し込む。
純白の大きな翼。光を纏った人影が、ゆっくりと舞い降りてきた。
藍色の髪が朝靄の中で揺れる。
低く、澄んだ声が響いた。
「ごめん。名乗るほどの者じゃないんだけど」
アルテットは反射的にエレメイを抱き寄せ、鋭い視線を向ける。
「その子の容態を、見せてくれない?」
「……あなたは」
「怪しいよね。でも敵じゃないよ」
柔らかな苦笑。
その姿を見て、アルテットは息を呑んだ。
「……リディナシエ様」
白翼の女性は、少し困ったように目を細める。
「リディンでいいよ」
そう言いながら、彼女はエレメイの胸元に手をかざした。
淡い光が広がり、損傷したコアを包み込む。
――チリン……
鈴の音のような微かな振動が、コアの奥で静かに響いた。
「……まだ消えてない。この子、強いね」
「助かるのか」
掠れた声で問う。
リディナシエは、静かに首を振った。
「代償はゼロじゃないけどね」
光が糸のように細く、コアへと流れ込む。
「記憶と自我を保てる保証はない。それでも、この子はきっと帰ってきたがってる」
アルテットは、間髪入れずに答えた。
「やってくれ」
迷いはなかった。
リディナシエは優しく微笑む。
「最善を尽くしてみせるよ」
「お願いだ。私の相棒は、こいつしか務まらないんだ」
女神の光が強まる。
砕けたコアの亀裂が、ゆっくりと塞がっていく。
エレメイの胸が、かすかに上下した。
その瞬間、アルテットの視界がまた滲む。
霧の向こうで、朝日が昇る。戦場に、静かな希望の光が差し込んでいた。




