3-19話:忘却の執行官⑤
戦場に漂っていた銀の霧は、やがて淡い朝の光に呑まれていった。
砕けた石畳の隙間に滴り落ちたメルキュリアは、まだ鈍い輝きを放ちながら広がっている。
焼け焦げた金属の匂いが風に混じり、折れた柱や破砕された壁の影から、時折火花が散った。
戦いが終わったというのに、そこかしこでまだ戦場の名残が呻いていた。
ジェンは背に広がる翼の残光に支えられるようにして、ようやく膝をついた。
視線の先にあるのは、倒れ伏す二人――リュードとメイズ。
拘束の役目を果たしたζ型の残骸は、鎖のように絡みついていた身体を解き放ち、軋む音を立てながら崩れ落ちていく。
「……メイズ、リュード……」
呼びかけは震えを帯びていた。
それでも、その声に応じるように、二人の瞳がかすかに揺れる。
虚ろに濁っていた視線に、淡いが確かな色が差し戻っていく。
リュードの槍は石畳に突き立ったまま、柄を握る指が白く硬直していた。
だがその力は次第に緩み、震えながらも生の感触を取り戻していく。
指先が石に擦れ、わずかに銀の雫が滲んだ。
「……お、れは……」
掠れた声が、リュードの喉から零れ落ちる。
戦士としての誇りを握り締めたまま、彼はようやく息を吹き返したのだ。
ジェンの胸に、安堵と痛みが同時に溢れた。
仲間を失いかけた恐怖が、まだ身体の奥を鋭く抉っている。
「大丈夫だ。もう……大丈夫だ」
言葉を繰り返し、震える二人の肩を抱き寄せる。
背に宿っていた白銀の翼は、まだ淡い光を放っていた。
だがその輝きも長くは保たれない。
羽根の一枚一枚が霧のように解け、空気に溶けるように消えていった。
触れれば消え去ってしまう幻のように、確かな存在感を失っていく。
(……この力は何なんだ……)
胸の奥で疑問が渦を巻く。
メイズが言った「リディナシエ様の翼」。
それは本当に女神に由来するものなのか。
それとも、もっと異質で――人知の及ばぬ何かが宿っているのか。
答えは出ない。
ただ一つ、確かに言えることがあった。
仲間を守りたいと願ったその瞬間、この力は応えた。
それだけは揺るぎのない事実だった。
*
しばらくして、メイズが震える息をつき、声を絞り出した。
「……ジェン、苦労をかけました」
まだ弱々しい声だったが、そこには確かな意識の光があった。
「私が……もっと注意していれば……」
その自責の響きに、ジェンはきっぱりと言葉を返す。
「違う。二人のせいじゃない。敵が仕組んだんだ。メイズも、リュードも」
短く鋭い否定は、慰めではなく事実だった。
メイズは唇を閉ざし、伏し目がちに沈黙する。
その横でリュードは槍を握りしめ、悔しげにうつむいた。
ジェンの胸には怒りが渦巻いていた。
――ロキシィ。
最後に残した、あの不気味な言葉が耳に焼きついて離れない。
『次はガデンツァ全員で遊びに来る』
それは脅しではなかった。
むしろ、愉悦を含んだ予告のように響いていた。
(……退いてくれたのは一時のこと。奴らがいつ再び現れるか分からない)
怒りを押し殺しながら、ジェンは仲間を支えて立ち上がる。
戦いは終わっていない。
むしろ、これからが本番なのだ。
*
空はすでに光を増している。
砕けた広場を照らす陽光は清らかで、戦いの爪痕を皮肉のように照らし出していた。
ジェンは懐から通信機を取り出し、中央ラボに残るテルルとレミナへ連絡を入れる。
「……負傷したメイズとリュードを回収して欲しい。座標はすぐに送る」
端末の向こうから返るレミナの声は落ち着いていて、どこか柔らかい。
『了解。今から二人で向かうわ。待っていて』
その冷静さに、ジェンは思わず肩の力を抜く。
「ありがとう。頼んだ」
短く答え、通信を切った。
「二人とも……テルルとレミナが迎えに来る。それまでここで待っていてくれ。僕は他のみんなの様子を見に行く」
「……問題ありません。それが一番効率的です」
メイズは頷いたが、その横顔には深い悔恨の影が残っていた。
リュードはまだ槍にすがりつき、わずかに首を振る。
「……次は、俺が……守る……」
掠れた声は誓いのように震えていた。
ジェンは彼の肩を軽く叩き、笑みを浮かべる。
「大丈夫。もう敵はいない。僕ら以外に反応はなかった」
そう告げて、ジェンは瓦礫の広場を後にした。
*
崩れた石段を越え、風の吹き抜ける路地に出たとき、ジェンは深く息を吸い込んだ。
胸の奥にはまだ、翼の余燼のような熱が燻っている。
(……この力の正体を、必ず突き止めてみせる)
それは誓いであると同時に、恐れでもあった。
仲間を守るために呼び覚ました力。
だが、その代償がどんなものなのか――ジェンには分からない。
もしこの力が、仲間を救う代わりに、別の何かを奪っていくものだとしたら。
それでも使わずにはいられなかった。
澄み渡る空が広がり、陽光が街の傷痕を覆い隠すように差し込む。
だがジェンの胸の内には、なお拭いがたい影が落ちていた。
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