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2-17話:星空の下

 中央ラボは地上二十五階までそびえ立つ、無機質な灰色の塔だ。

 外壁には一枚の窓もなく、最上階にだけ広い屋上が設けられている。


 その夜、ジェンは屋上にひとり立ち、頬を撫でる涼しい夜風を胸いっぱいに吸い込みながら、静かに島全体を見下ろしていた。

 いつもなら濃い霧が視界を覆い、海の果てなど見渡せない。

 だが、この夜ばかりは霧が跡形もなく消え、果てしない海原の上に、澄み切った夜空が広がっていた。


 無数の星々が鋭く瞬き、月明かりと溶け合って波間に銀色の道を描く。

 その光景にしばらく目を奪われていたジェンは、吐息のような声で呟いた。


「……この星、テルルにも見せてあげたかったな」


 夜風に乗った独り言は、すぐに闇へ溶けていった——はずだった。

 だが、背後から軽やかな声が返ってきた。


「へえ、ジェンって案外ロマンチストなんだね」


 振り返ると、屋上への階段扉が開き、ウィルが姿を現した。

 いつもの飄々とした笑みを浮かべ、夜風に髪を揺らしている。


「いい眺めでしょ?」


 そう言いながら、ためらうことなく縁まで歩み寄り、腰を下ろす。

 足をぶらぶらと揺らしながら、まるで高さなど意に介さない。


「ここにいると、島を丸ごと独り占めしてる気分になれる。……敵が来ても遠くから見つけられるし。まあ、見つけたところで面倒が増えるだけだけどね」


「……ウィル、今日はありがとう」


 ジェンは星空から目を離さず言った。


「オルダが言ってたよ。百体以上も倒したって。本当にすごかったって」


「百体か……正確な数は数えてないけど、多かったのは確かだね」


 ウィルは肩をすくめ、星明かりがその瞳に鋭い光を宿す。


「全部止められればよかったんだけど……ジェンの大事なテルルに怪我させちゃったし。悪かったよ」


 声は普段より低く、視線はわずかに地面へ落ちていた。


「……ウィルは最善を尽くしてくれた。少なくとも、僕はそう思ってる」


 ジェンの声には揺るぎない温かみがあった。


「僕こそごめん……あんなに大事に手入れされた菜園を守れなかった」


 踏み荒らされた菜園を思い出し、肩を落とすジェン。


「残念だけど、仕方ない。また一から作るよ」


 遠くを見つめたまま表情を曇らせて答えたウィルは、少し間を置き、ジェンを真っ直ぐ見つめる。


「なあ、ジェン。ちょっと真面目な話をしてもいいか?」


「どうしたの?」


「戦いのことじゃない。……もっと大きな話だ」


 珍しく真剣な表情。夜の冷気の中でも、その目にははっきりと熱があった。


「ボクはさ、このままでいいのかなって考えてるんだ。人間のことを」


「人間……?」


 ジェンはわずかに眉をひそめる。


「ボクたちは、人間のために造られた存在だろ? だったら人間のために何かすべきじゃないかって」


 ウィルの声は夜風に紛れず、静かに届く。


「もちろん、ミラサイトを奪おうとする連中に渡すつもりはない。そういう奴らは絶対に独占したがるからね。でも、どこかで飢えや寒さに苦しんでる人間がいるなら……そういう人を、どうにかできないかなって、ずっと考えてる」


 ジェンは無意識に拳を握り、視線を落とした。

 そんな発想は一度もなかった。

 彼にとって大事なのは、仲間と過ごすこの日々。それだけで世界は成り立っていた。


「……ジェンは、どう思う?」


 その問いかけは、柔らかくも芯のある響きだった。


 答えは出なかった。

 自分たちの安全と生活を守ることだけを考えてきた。

 人間は自分たち平和を揺るがす存在——そう信じてきた自分の思考の外側を、ウィルは迷いなく見据えている。


「僕は……」


 言葉は途切れ、冷たい夜風だけが二人の間を吹き抜けた。


「ははっ」


 ウィルがふいに笑い、軽く首を振る。


「すぐに答えが出る話じゃないね。悪い、ややこしいこと言って」


「いや……」


 ジェンはゆっくり首を振った。


「考えたことがなかっただけだ。……ウィルの話、無駄じゃない」


「そっか」


 短く答えると、ウィルはもう一度夜空を仰いだ。

 星々が冷たく輝き、二人の影を長く伸ばす。しばしの沈黙ののち、ウィルは立ち上がった。


「そろそろ降りよう。夜は冷える」


「……ああ」


 階段へ向かう途中、ウィルはふと足を止め、振り返った。

 その目には冗談の欠片もない真剣さがあった。


「ジェン。君は、自分が思っている以上に凄い奴なんだ。自分の使命を……全うしてくれよ」


「使命って……そんな大げさなものが僕にあるのかな…」


 ジェンは眉を寄せて呟く。


「ミラサイトをこの胸に宿して生まれた以上、誰もが使命を背負っているんだよ。君も、ボクも」


 ウィルはいつもの笑みを浮かべ、階段の闇へと消えていった。

 ジェンはしばらくその背中を見送った後、心の中でぼそりと思う。


(……ウィルって、昔から難しいことを言うよな)


 再び星空を仰ぐ。

 満天の星は、どこまでも静かで、どこまでも遠い。

 それでも今夜は、なぜかいつもより近く感じられた。

第二章完結となります。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

三章もお楽しみに。

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