表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
眩い星夜  作者: コギン
8/53

第3章 1

「お世話になってまーす、デリバリーのマッハフーズでーす」

 新宿歌舞伎町のとあるキャバクラ店の裏手。誰かが投げ捨てた紙クズや、煙草の吸殻が入ったコーヒーの缶が放置された通用口のドアを叩く。客が出入りするエントランスに比べて、おそろしく簡素なその通用口から、のっそりと金髪の男が顔を出した。

「遅ぇんだよ、お前。三分で届けろや」

「すいませーん、道が混んでて。ご注文の牛丼セット五つお届けに上がりました」

「チッ。次は気を付けろ」

 だらしなく蝶ネクタイを弛めた男は、品物を受け取ると乱暴にドアを閉めた。デリバリーの配達員の仕事を始めて二ヶ月、こういった態度の客にはしょっちゅう遭遇する。

「ありがとうございましたー。またお願いしまーす」

 客がドアの向こうに引っ込んだのを承知の上で、俺は条件反射のように頭を下げた。キャバクラやラウンジ、スナック、バー、酒を出す店に配達する時は、愛想よくしておいた方が無難だと学習した。それでなくてもこの街は、酒を出さない店の方が少ないから。

 十八歳の誕生日に家を出て、少しの貯金と着替えを入れたバッグを手に東京にやって来た。電車を何本か乗り継いで、新宿に辿り着いた時は人の多さにびっくりした。その日はちょうど金曜日の夜で、両目がちかちかするほど眩しいネオンサインの洗礼を受けながら、俺は一人でぐるぐると歩き回った。

 初めての大都会の夜、俺は安いネットカフェに身を寄せて、料金パックについていたカップラーメンを啜った。一人になった解放感は確かにあったのに、受付に見せる身分証明書が家族で海外旅行をした時に作ったパスポートしかなくて、もどかしい思いをした。

「やっぱりスマホがあった方がいいな。できれば保険証も」

 家を出る前に、親子を証明するものは父親に悉く捨てられてしまった。カード類はハサミで切り刻まれてゴミ箱行きになり、唯一パスポートだけが無事だった。きっと父親は家族旅行を記憶ごと消去したんだろう。もう息子だと思わないと言われたから確かめようがない。

「仕事も、見付けないと。中卒で住み込みで働けるところ……ないかな……」

 汗をかいた体をコインシャワーで流してから、古い型のデスクトップパソコンのキーボードをポチポチと鳴らした。ネットカフェの薄い壁板の向こうから、隣の客のいびきが聞こえる。俺は憧れや希望を抱いてこの街にやって来た。それがなければ、半年以上も家で引きこもっていられなかっただろう。

 仲間に会えそうなゲイのコミュニティを探すつもりが、小さな個室で真っ先に検索したのは、不動産屋の賃貸情報やバイトの求人ばかり。その挙げ句に、親元を離れた十八歳が暮らしていけるほど東京は甘くないことが分かって、俺はゲーミングチェアの上でぐったりと脱力した。

「何とか……なるのかなあ」

 疲れ切った俺の指先は、もうキーボードを叩く力も残っていなかった。

 上京一日目、絵に描いたようなどん底で眠りこける。翌日の朝、店員が起こしにくるまで目が覚めなかった。中学生の頃から慢性的だった不眠症が、この日を境にすっかりと治っていた。

「――っと、次の配達だ」

 ピピッ、と電子音が鳴って、俺はほんの二ヶ月前の追憶から現実に戻った。

 自転車を停めて、マッハフーズのビビットピンクのロゴが入ったブルゾンのポケットを探る。スマートフォンに表示された配達依頼は、高級だと有名な花道通りの寿司店から、さくら通りにあるホストクラブへ十人前の特上寿司を届けるオーダーだった。

 求人サイトで見付けたデリバリーの仕事は、田舎から出てきたばかりの俺にとっては、新宿の地理を知るのに都合がよかった。マッハフーズは配達数に応じて収入が上がっていく歩合制で、希望すればスマートフォンも自転車も貸してくれる。

 毎日新宿のあちこちへ配達していると、同性愛者が集まる場所を簡単に知ることができた。歌舞伎町からほど近い『二丁目』と呼ばれているそのエリアでは、男と男が路上で抱き合っていても罵倒されない。臆病な性格の俺は、そんな光景を遠巻きに眺めては、カルチャーショックを覚えた。ゲイであることは隠しておくべきだという俺の考え方は、今もまったく変わらない。

 そんな融通の利かない俺でも、新宿はまるで夢の街に見える。歌舞伎町も二丁目も、広いこの街の一部でしかない。ビビットピンクのブルゾンでペダルを漕いで回る俺も、新宿を形成している欠片だ。

 両親と暮らしていたら一生吸うことのなかった自由な空気を、俺は体いっぱいに吸い込んで毎日を生きている。十八歳になって二ヶ月が過ぎ、ネットカフェに寝泊まりしながら、なんとか暮らせるくらいにはこの街に馴染み始めていた。

「最初はキツかったけど、何とかなるもんだなあ」

 人混みを擦り抜けるようにして自転車を飛ばし、高級寿司店へ品物を受け取りに行く。景気のいいオーダーが入る時は、届け先もたいてい儲かっている店が多い。さくら通りのホストクラブ、ルネスは、マッハフーズをよく使ってくれる得意先だ。

「いつもありがとうございまーす。マッハフーズでーす」

 全面ギラギラ鏡張りのルネスのエントランスは、ホストクラブがたくさんあるさくら通りの中でもよく目立つ。ダークスーツでキメた案内係のホストに軽く挨拶をして、いつものように店の裏手へ回った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ