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眩い星夜  作者: コギン
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第16章 6

「身辺って、まさか彼女のこと?」

「そうだよ。彼女の両親も交えて話し合いをした。婚約は正式に破断になった」

「正式……に」

 破断という言葉の重みを、俺は奥歯で噛みしめた。

 上流社会の婚約者と別れて、何のメリットもない俺を選ぶなんて、橘は向こう見ずだ。

「本当にそんなことして平気なの? 橘さん、ヤケになってない?」

「俺はいたって冷静だ。でも、俺がこんなに諦めの悪い男だって、気付かせてくれたのは星夜だぞ」

 橘がまた、俺の頭を撫でた。俺は照れくささが限界を突破して、耳の先まで熱くしてしまう。それをごまかそうとして早口になった。

「――あんたは本当にもったいないことしたよ。こんなひねくれたゲイを選んでさ」

「最高の選択をしたと言ってほしいな」

「ないない。彼女もよく納得したね」

「俺が自分の気持ちを曲げない性格だって、よく知っているから。ただ、彼女の両親が絶対に慰謝料を払うと主張してきたんだ」

「当然だろ。向こうが悪いんだし」

「何度断っても撤回してくれなくて困ったよ。結局慰謝料の代わりに、ブラジルの子会社をもらうことにした」

「会社をもらったの!? よく分かんないけど、すごいね」

「ここしばらくの間、子会社の譲渡契約や事務手続きを進めていた。向こうにいたからすっかり日焼けしてるだろ。ブラジルは今、夏なんだ」

「そうか、季節が日本と逆だったっけ?」

「サンパウロのビーチの話もしたいな。本当に、お前に話したいことがたくさんあるんだ」

 そう橘は言った。俺も彼と同じ気持ちで頷いた。

「俺も、話したいことあるよ。俺、ちょっとだけいいことがあったんだ。ずっと気になっていたことがあって、俺なりの落とし前をつけた」

 最後に見た翔子の顔が、俺の頭に思い浮かんだ。故郷の街で、彼女も穏やかな朝を迎えているといい。

「じゃあゲレンデに着くまで話題には困らないな。ゆっくり聞かせてくれ」

「うん。……でも今はちょっと……気が抜けて眠い……」

 急な眠気に襲われて、俺は瞼を擦った。修羅場で命を落としかけた後、こんな天国が待っているなんて、まるでテーマパークのアトラクションだ。仕事明けの疲れも相まって、急速に力が抜けていく手を、俺は橘へと伸ばした。

「会いたかった」

 一番言いたかったことを告げて、俺は橘の膝に手を置いた。掌に感じた彼の温もりが、宝物のように得難くて、失いたくないと思う。

「橘さんと離れている間、俺、寂しかったよ。二度とあんたに会わないって、自分で決めたはずなのに、いつもあんたのことを考えてた」

 赤信号の交差点。この通りを過ぎたら、新宿から隣の区へと出る。誰もいない横断歩道の前で、橘はブレーキを踏んだ。

「お前を眠らせてあげたいけど、ひとつだけ頼みがある」

「うん、俺にできることなら、何でも、言って」

「お前の本当の名前を教えてほしい」

「橘さん……」

「『星夜』じゃないお前を知りたい。本当のお前と、友達から始めたいんだ」

「――うん。俺もあんたと、そこから始めたい。俺の名前は、山本朝陽。朝陽と呼んで」

 本名を名乗るのは、いったい何年ぶりだろう。俺の体の内側が、とても温かい安らぎ

 に満たされていく。

「朝陽、キスをしてもいい?」

「頼みはひとつだけだろ」

「欲張りでごめん。――友達でもできるキスだ」

 嬉しそうに弧を描いた橘の唇が、俺のおでこに触れた。

 俺は夢でも見ているのだろうか。夢でもかまわないから、こんなに優しいキスなら何度でもしたい。

 橘の唇に甘やかされて、俺が満ち足りた眠りに落ちていくその時、交差点の信号は青に変わった。



       ◆     ◆     ◆



 最近、歌舞伎町の雑居ビル群に吹きつける風が、随分と温かくなった。季節は駆け足で春へと向かっている。

 そんなある日、俺はルカと矢坂を店に招いた。

「星夜のお店がカフェ営業を始めるなんて、最初に聞いた時はびっくりしたわ」

「バータイムで酒を飲んだ後に、朝食を出してくれるやなんて、俺らみたいな職業にはありがたい店やな」

 静かな店内に、二人の声が響いている。グラスや食器の整理を終えた俺は、カウンターでコーヒーを淹れた。

 来週からこの店は、リニューアル工事を予定している。店内のレイアウトを変え、テーブル席を増やし、バーとカフェを併設するのだ。

 オーナーと協議して、俺はこの店を買い取ることにした。と言っても貯金は使い果たしていたから、今後は売上から地道にローンを返していくことになる。商売が成功するかどうかも分からないのに、それを許してくれたオーナーは随分お前に甘いと、矢坂からは笑われてしまった。

「それにしても思い切った決断だったわね」

「俺としては、営業時間が今までより少し長くなるだけ。けっこう早朝って需要あるでしょ?」

「そうね。歌舞伎町では特に」

「ええところに目を付けたと思うで。大手チェーンのカフェより、こういう小さい店の方が人気集めそうやん。SNSで映えるやつ」

「朝食用のメニューを考えなきゃ」

「そう思って今日は二人を呼んだんですよ。――どうぞ」

 淹れ立てのコーヒーを勧めると、ルカは睫毛の長い目を細めた。

「ありがとう。いい香り」

「ほな遠慮なく。……ん、うまいな、このコーヒー。星夜の腕やろか」

「豆の質がいいからね」

「このコーヒー、どこで手に入るの? 私も買いたい」

「ブラジルの個人農園からの直輸入なんで、国内ではまだ取り扱ってないはず」

「そうなの? 残念だわ」

「ツテはあるんやろ。せやったらこの店で販売したらええやん」

 矢坂がすかさず提案してくれた。その新しい商売の話は、コーヒー豆の発注先である橘もきっと乗ってくるだろう。

 橘が社長を務める貿易会社は、ブラジルのサンパウロにある。彼は現在、長期の出張中だ。この店がカフェ営業を本格的に始める頃、一時帰国することになっている。彼の好きな仕事に、こんな形で関わることになるなんて、俺は思いもしなかった。

「星夜のお店が繁盛するように、私たちも応援するわ」

「ありがとう、ルカさん」

「リニューアル工事が終わったら、オーナーが祝いのパーティーを開いてやるて言うてたよ」

「えっ、……何だか照れるな。でも嬉しい。ルカさんも矢坂さんも、パーティーに来てくれるだろ?」

「もちろん」

 二人は声を合わせてそう言った。あまりに息がぴったりだったから、俺はつい笑ってしまった。

 夜でもなく、昼でもなく、二つの世界が交差する朝に、地球の反対側から橘が届けてくれるコーヒーを淹れる。そんな毎日が間もなく俺のもとに訪れる。

 変わらないはずの日常に新しい風が吹いている。優しく背中を押す追い風が。




 END



 ここまで読んでくださってありがとうございました。『眩い星夜』はこれにて完結となります。星夜という名前で暮らした彼の新しい毎日が始まりました。幸せな日々になることを私も願っています。

 読後のご感想やリアクションなどお寄せいただけたら嬉しいです。どうぞお気軽に、よろしくお願いいたします。コギンより。

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