第16章 5
「星夜、大丈夫か!」
「たちばな……さん」
俺は瞼を開けた。夢と現実が混ざったように、目の前の光景がぐらぐらと揺れた。アキラの体を橘が羽交い絞めにしている。
「は、離せ、何だてめえ!」
「どうして……あんたがここに……」
「絶対にお前を守ると言っただろう?」
そう言って橘は俺の方を向いた。逆光のせいで表情がよく見えない。記憶の中の橘よりも、彼は日焼けをして精悍な気がする。
「すまない、星夜。迎えに来るのが遅くなった」
「誰だお前……っ! 離せよ!」
「おとなしくしろ!」
橘は暴れているアキラの腕をねじり上げた。凶器のボトルが二人の足許へと滑り落ちていく。
「星夜、今のうちに逃げろ!」
「嫌だ……っ!」
俺は反射的に叫んでいた。頭で思うよりも早く声が出た。
「あんたと、離れたくない」
沸騰するように、俺の中に湧いてきたその願い。橘はアキラを思い切り突き飛ばし、俺の腕を取って駆け出した。
「星夜! 走れ!」
「橘さん……っ!」
彼の大きな掌に掴まれた二の腕が痛い。痛くて嬉しくて、言葉にならない。
「待て、てめえら! ぶっ殺してやる!」
足を引き摺りながら、背後でアキラが喚き散らしている。アキラの店の黒服たちが、騒ぎを聞きつけてビルから飛び出してきた。
「おい、うるせぇぞアキラ! 何やってんだ!」
「酔っ払ってんのかよ、どうしようもねぇな、こいつ」
「警察に通報されたら面倒だ、取り押さえろ」
「離せ! 離せぇ……!」
暴れるアキラを黒服たちが囲んだ。身動きを封じられ、道路に組み伏せられたアキラの姿が、次第に小さくなっていく。
「後ろを振り返るな。お前が同情しても彼は救われない」
橘は走るスピードを上げた。背後の喧騒はもう俺の耳には届かなくなった。
「星夜、ケガはしていないか?」
「俺は……っ、大丈夫。橘さんは」
「何ともない。それよりお前の腕、だいぶ細くなってる。顔色も悪いし、ちゃんと食べてないだろう」
「あ、あんただって、前はそうだっただろ」
俺が言い返すと、橘は笑った。目尻に小さな皺ができる、何度も俺が見た顔だった。
「言い返せる元気があるなら上等だ。あそこのランドローバーまで走れ」
人のまばらな早朝の歌舞伎町。息が切れるほど駆けた俺たちは、歩道の脇に停めてあった車へ乗り込んだ。俺がシートベルトを震える手で引っ張っている間に、橘はアクセルを踏んだ。
朝の冷気の中を四駆車が進む。歌舞伎町が眠りにつく時刻、ネオンサインの消えた街並みを駆け抜けていく。
「このまま雪を見に行こう。星夜と旅行するのを、楽しみにしていたんだ」
橘はダッシュボードの中から、信州のスキー場のガイドブックを取り出した。彼と別れた日に買った本だ。
「俺と一緒でいいの……?」
「お前の他に誰と行くんだよ。へたくそな嘘で俺をふっておいて、そんな心細そうなことを言わないでくれ」
橘は微笑みながら、大きな手で俺の頭を撫でた。髪をぐしゃぐしゃに乱され、俺はくすぐったくて仕方なかった。
「なあ、どうして? こんなにタイミングよく現れるなんて、どういうこと?」
「ついさっき、お前の店まで行ったんだ。あそこに行けば、絶対にお前に会えると思ったから」
「昨日だったら会えなかったよ。店をしばらく臨時休業にしてたんだ」
「それなら星夜に会えるまで毎日通っていたさ。会いに来るのが、遅くなってごめん」
「何で謝るの?」
冷たくして突き放した俺に、会いたいと思ってくれたことが嬉しい。だから、橘が謝る理由が俺には分からなかった。
「星夜が危険な目に遭う前に、もっと早く行動するべきだった。お前がいなくなった日から、お前にもう一度俺の気持ちを伝えるために、身辺を片付けていたんだ」




