第16章 4
「何故お前だけがヘラヘラと生きていられる。翔子を覚えてるか。お前の客の翔子だよ。お前に入れ込んで組の金を持ち出して、ヤクザにとっ捕まったそうじゃねぇか。今頃はとっくに土の下だろうよ! オーナーもヤクザと同じだ。この街の仁義とやらをタテに俺の足を潰しやがった!」
「先にルールを破ったのはそっちだろ。翔子さんはやったことの代償はもう払い終わってる。今は安全なところにいるんだ。あんたと一緒にするな」
「どいつもこいつも気に入らねぇが、お前は最悪だ。ホモ野郎が、俺を上から見下ろしやがって。目障りなんだよ!」
俺の胸元を割れたボトルの切っ先が掠めた。鋭く尖ったそれを避けきれずに、コートの布地が切り裂かれる。
「アキラさん! 落ち着け!」
「お前が、お前だけが! お前だけが特別で俺はゴミか! 冗談じゃねぇ!」
ボトルを振り回すアキラに、もう俺の声は聞こえていない。後ずさった俺は、集積所のネットに足を取られ、悪臭のするゴミの山に倒れ込んだ。
「くそ……っ」
「まずはお前から殺してやる。お前が死んだって、この街のゴミが一人減るだけだ。誰も悲しまねぇよ」
呪いの言葉を吐きながら、アキラは俺の眼前にボトルを突き付けた。凶悪な形に割れた切っ先が、俺の命を標的にしている。それなのに俺は、奇妙なくらい冷静だった。
『ほうっておいても死ぬ時がきたら人は死ぬ』
以前オーナーに言われた言葉が、俺の耳の奥に蘇った。今がきっと、死ぬ時に違いない。
「分かった。……いいよ。首でも、心臓でも、あんたが手に持ってるそれで突き刺したらいい」
行きたい場所も帰りたい場所もない俺は、この街で何度となく生かされてきた。俺を受け入れてくれたこの街で命を失うのなら、俺は俺の運命に納得できる。
「よかった、相手がアキラさんで。これで罪悪感を持たなくていい。俺を殺した後であんたが逮捕されようが、死刑になろうが知ったことか」
「強がるなよ。声が震えてるぜ?」
「嬉しいからだよ。……長かった。やっと俺は、ゴールに着いたんだ」
仰向けになったまま、俺は全身の力を抜いた。運命は俺に、願ってもない偶然を用意してくれた。
この場所は、俺のことを好きだと言ってくれた男と出会った場所だ。橘は嘘を言わない、呆れるくらい誠実な男だった。
つまらない生き方だと世界じゅうの人間が笑っても、たった一人だけ、橘だけは俺のことを肯定してくれるだろう。橘は今ここにいなくても、彼と過ごした記憶は俺の中にある。
「ああ」
吐き出した息が掠れた声になった。こんなにも単純なことに、死ぬ間際になって気が付くなんて。
「俺はとっくに、一人じゃなかったんだ」
林立する雑居ビルの彼方に、ようやく白んできた空が見える。この街の朝は冴えた空気に包まれていて、夜の熱さとも昼の温さとも異なっている。走馬灯を見るのなら、橘と出会って別れるまでの、楽しかった数か月間のスライドがいい。
この街の光と影も、虚も実も、包み隠さず照らし出す太陽。星の数ほどあるネオンサインが朝色に染まっていく。
「死ねや、星夜!」
咆哮が響き渡った。アキラのシルエットが、閉じた瞼の裏側に消えた瞬間、俺は橘のことを想った。
「何をしてる」
突然、俺はやけにリアルな幻聴を聞いた。
「何をしてると聞いてるんだ!」
夜明けの街に轟いた声が、俺の意識を覚まさせる。覚悟を決めていたのに、死はやってこなかった。




