第16章 1
短い旅を終えて、俺は新宿に帰ってきた。歌舞伎町のネオンサインは今夜も眩しく、眠らない街を照らしている。
「びっくりしたよ。この店が何日も臨時休業なんて、初めてだったからさ」
「お休みの間、どこに行ってたの? 旅行?」
カウンター席に座っている常連客たちが、口々にそう言った。カクテルグラスを洗いながら、一週間ぶりの仕事に俺は汗を流している。
「田舎の小さな温泉街へ、ちょっとね」
「誰と行ったの? あ、彼女かな? 紹介してよ」
「勝手に話を進めないでください。一人旅ですよ」
俺は客たちに、旅の目的は話さなかった。
売春宿から翔子を助け出した後、俺は彼女を出身地の街まで送り届けた。電車と新幹線を乗り継いで辿り着いたその街には、彼女の母親が一人で暮らしていた。
小さな飲食店を経営している母親は、翔子の姿を見てはじめは驚いていたが、やがて涙を流して娘の帰宅を喜んだ。
翔子も俺と同じように十代で家出をしたらしく、母親は彼女がキャバクラ嬢をしていたことさえ知らなかった。何年も音信不通だった娘を、母親は引き取って治療させると約束してくれた。
『ありがとうございます。見付けてくださって、ありがとうございます。ずっと心配していたんです。娘がお世話になりました。本当に、本当にありがとうございます』
翔子よりも小さな体を折り曲げて、何度も頭を下げていた母親。意識の混濁した翔子が望んだ行き先は、彼女が何年も暮らした新宿ではなく、母親が待つ家だった。
帰る場所があっただけ翔子は幸運に違いない。俺がそう思いたいだけなのかもしれないが、ことの顛末をオーナーに報告したら、深い溜め息をついて同感だと言っていた。
「急な休みで迷惑かけちゃったから、今月は無休で営業しますよ」
「それじゃあ給料も出たばかりだし、新しいボトルを入れようかな」
「毎度ありがとうございます」
俺はブランデーのボトルを取り出して、銀色のネームプレートに客の名前を書き込んだ。
客たちの話す声。店内に低く流れるスロージャズ。翔子との短い再会を終えて、俺はもう日常の時間の中にいる。
これまでも、これからも、俺はこの街で生きている無数の人間の中の一人だ。翔子の身請け金に使ったから、貯金も綺麗さっぱりゼロ。何と身軽なことだろう。バーの店長をいつまで続けるか、先のことは決めていないし、それを決める理由も今の俺にはなかった。
「ねえ店長、あのかっこいいバーテンさんはどうしたの? 橘さんって言ったっけ。今日はお休み?」
俺の手元から、ボトルが滑り落ちそうになる。セピア色の間接照明のおかげで客たちには気付かれなかった。
「クビにしましたよ。水商売には向かないタイプだったから」
「そうなの? デートに誘おうと思ってたのに」
女性客は残念そうに言った。橘は八菱商事に復帰しただろうか。彼の前に、光り輝くような出世の道が再び開けていたらいい。
すると、カウンターの端の席にいた常連客が、気まずそうに咳払いした。
「……店長さん。クビって、やっぱり、この前の一件が原因なのかな。バーテンさんに俺のツレが失礼なことをしたから……」
その常連客が連れてきた友人は、橘に悪感情を持った元同僚だった。でも、彼らの事情を知らない常連客には何の罪もない。
「本当に悪いことをしたと思ってるんだ。あのバーテンさんにまた会うことがあったら、謝っておいてくれないかな」
「気にしないでください。歌舞伎町ならよくあるトラブルですよ」
「でも……」
「彼は客商売ができるタイプじゃないので。元々、長く雇うつもりもなかったし」
常連客がいっそう表情を曇らせたから、俺は苦笑するしかなかった。
橘が今どこで、どうしているか俺は知らない。俺にできるのは想像することだけだ。彼も俺と同じように日常に戻って、彼なりの幸福を手にしている、と。
「俺は、彼は冷静で堂々としていたと思ったよ。とても誠実そうな人だった」
「ええ、誠実な奴だったことは確かです。だから……この街には不似合いなんですよ」
俺はグラスに注いだ水を一気に飲み干した。頭の奥にこびりついた橘の残像が、無味なはずの水を苦い味にする。
夜も更けて、客たちは一人、また一人と帰って行った。終電が過ぎた時間帯は、週末でもなければ客足は極端に途切れる。午前三時を回ると、店にいるのは俺だけになった。




