第15章 4
「――誰?」
この旅館は客にいらっしゃいませも言わないらしい。運転手が言っていたチンピラだろう、歓迎する気のまったくないフロントの男に、俺は短く名乗った。
「蘇芳の使いの者です」
ここへ来る前に、自分のことはそう名乗るようにとオーナーに言われた。本名を名乗る必要はない、『蘇芳』と言えば話が通じる、と。
「エミの迎えかい。上から聞いてるよ」
翔子は今、エミと呼ばれている。探偵の調査報告書にもそう記載されていた。俺も含めて、名前にあまり意味がない人間の袋小路なのだ、ここは。
「金は」
「こちらに」
アタッシュケースを少し持ち上げて見せると、男は頷いた。俺がここにやって来た段階で、既に翔子の救出の九割は完了している。
ヤクザの手に落ちた人間は同じヤクザにしか救えないと、オーナーは新宿で組長をしている彼の弟に口利きを依頼した。ヤクザどうしの話し合いは金で解決するという結論で纏まったのだ。翔子が現在背負っている借金がそのまま、身請け金としてこちらに提示された。
「そいつを寄越しな。俺が預かる」
アタッシュケースの持ち手が汗で濡れている。オーナーも弟の組長も、金は立て替えてくれると言ったが、俺はどちらの申し出も断った。翔子への罪滅ぼしにはならないが、ホストだった頃に使わないまま通帳に残っていた金を全額引き出して持って来た。
「支払いは女の受け渡しが終わってからだ。文句があるなら、あんたの上役に新宿まで出向いてもらう」
俺は男を睨んで、そう撥ねつけた。翔子の無事を確かめるまでは、彼女の命綱の金を守らなければならない。目の前のチンピラに隙ひとつ見せるわけにはいかないのだ。
「チッ。――そこの階段を上がって右側の通路の一番奥だ」
男が顎をしゃくった先に、緋毛氈を敷いた階段がある。褪せて朱色になったそれを見上げて、静かに唾を呑み込んだ。
「他の部屋に立ち入るんじゃねえぞ」
「ああ」
緊張していることを悟らせないように、俺はゆっくりと歩き出した。足を乗せただけで階段が軋む。二階に上がると、左右に別れた通路にドアが八つあった。錆びついたドアノブと、画一的で簡素な部屋の並び。どこからかセックスの最中の声がする。
温泉街には人影すらなかったのに、昼間から女を買いに来た客がいるらしい。片言の日本語の喘ぎ声を聞きながら、右の通路の一番奥の部屋へ向かう。汗ばんだ手でノックをしても、ドアの向こうから返答はなかった。
「入るよ――」
恐る恐るノブを回すと、ドアの隙間から独特の匂いが漂ってきた。甘さと青臭さを混ぜたような明らかに違法なものの匂い。白い煙の充満する換気の悪い室内に、ぐったりと蹲る女がいる。




