第2章 5
「取り乱してしまい、本当に申し訳ありません。大変デリケートな問題ですのでご家族での話し合いも必要でしょう。学校が夏季休暇に入る前に、自宅療養という形でケアをされてはいかがでしょうか。――他の生徒たちにも配慮して、ぜひそのようにお願いします。今日のところは、我々はこれで失礼させていただきます」
教頭はそう言い残すと、秋川を引き摺るようにして出て行った。秋川と俺は、まともな会話を交わすことなく完全に決裂した。
秋川にはきっと厳しい罰が下るだろう。彼は処分を少しでも軽くしたくて、卑怯な言い訳をしたに過ぎない。客間に残った両親は、彼らを見送ることもなく、水を替え忘れた花瓶の花のように項垂れている。
「俺も自分の部屋に戻っていい?」
両親は俺の目を見なかった。信じていた息子を守るつもりが、二人はきっと裏切られたと思っている。
「――謝りなさい」
誰に。何を。謝る相手も理由もないのに?
「謝りなさい! 父さんと母さんに謝れ!」
父親に殴られて、俺の体が吹っ飛んだ。激しい衝撃とともに、こめかみの上の方がかっと熱くなる。ドアの角にぶつけたそこから、ぬるぬると血が滴って客間の床を汚した。
「つ……っ」
俺は蹲り、頭を手で押さえた。父親は温厚で、理由もなく暴力を振るわない人だ。人格者の父親でさえも、息子がゲイであることを許せない。
昨日まで何の綻びもなかった家族の関係が、あっという間に崩れていく。俺はふらつきながら立ち上がり、顔を引き攣らせている両親を見た。
「俺は謝らない」
「お前……。どうしてだ。私たちは、お前を普通の子に育てたつもりだったのに」
「俺は、自分が普通じゃないって知ってる。でも、今日のことがなかったら、一生秘密を打ち明けなかったと思う」
「こんな秘密なら聞かない方がましだ」
「初めて好きになった友達も男だった。俺はゲイなんだよ。父さん。母さん」
「――同性愛なんて汚らしい。間違ってるわよ」
客間を出て行こうとした俺に、母親がひどい言葉を投げ付けてきた。でも、不思議なくらい俺の心は静かで、涙も出なかった。
自宅療養という名目の停学を受け入れて、あれから一週間も経たないうちに俺は自主退学をした。秋川と俺の噂は校内にあっという間に拡がり、早くそれを沈静化させたがった両親が、退学手続きを進めたからだ。謹慎中だった秋川も辞職し、ひっそりと学校から消えたらしい。
高校を中退したことに、俺はさほどダメージを感じなかった。ただ、机が並んだ教室の風景を思い浮かべると、自分には遠い世界になってしまった気がして、時々やるせなくなる。そんなつまらないことを考えてしまうくらい、カーテンを閉め切った部屋で一人で過ごす一日は長かった。
カミングアウトをしてから、両親は心のシャッターを閉ざしてしまった。特に母親は怪物を見るような目を俺に向けてきて、ひどく脅えたり罵ったりする。いつも青白い顔をして、化粧も髪の毛を整えることもしなくなった。
そんな母親の世話をするために、父親は単身赴任をしていた会社から転職して、今はテレワークをしながら家で暮らしている。新しい仕事のストレスもあってか、父親は常に苛々して、物にあたり散らしたりすることが多くなった。
「父さん。いつまで俺は、こうしていればいいの」
新しい学校に通うことも、アルバイトをすることも、俺は許してもらえなかった。一人で外出しようとしただけで咎められてしまう。
「ここでおとなしく過ごすしかないだろう」
「……家の中にずっといろっていうこと?」
「お前を外に出したら、また人の道を踏み外す。お前は父さんたちをこれ以上苦しめたいのか」
「そんなこと、別に、思ってないよ」
ゲイの息子は、両親にとって犯罪者と変わらないのだ。その上、問題を起こして高校を退学したから、俺のことを世間に顔向けできない恥だと思っている。遠方に住む祖父母が俺を預かると言ってくれたが、父親はそれを拒んで、俺の軟禁状態を解こうとしなかった。
家は檻だ。檻の中でじわじわと首を絞められて、俺は毎日少しずつ殺されていく。両親が俺を許す日は来ないのかもしれない。
「親の義務は果たすつもりだ。成人するまではこの家に置いてやる」
退学して半年くらい経った頃、父親が突然、そんなことを言いだした。親子の温かい会話なんて、とっくになくなっていたから、話しかけられただけで俺はびくついた。
「成人するまでは、って……」
俺の耳には、父親の言葉のその部分がことさら強調して聞こえた。
「十八になったら出て行け。何の援助もしない。連絡も入れなくていい。勝手に生きて行けばいい」
どくん、と大きく心臓が鳴って、死にかけていた俺の体に血が巡りだす。
俺の誕生日まで一年もかからない。永遠の檻と期限付きの檻とは雲泥の差だ。父親の冷え切った目を見返した俺は、一縷の希望を抱いた。
「――自由の身になれると思ったか? お前がこの家にいると、母さんがもたない。勘違いするな、母さんを守るためだ」
「うん。……分かった」
「一人っ子のお前を、大切に育ててきたつもりだった。まっとうな人間になってほしかった。父さんも母さんも、お前の将来を楽しみにしていたのに……っ。お前なんかもう、私たちの息子じゃない。お前の名前すら呼びたくない!」
父親は言いたいだけ言って、テーブルの上の湯呑みを床に投げ付けた。
檻の中に繋がれて死んでいくよりは、つらくても自由な場所で生きていきたい。親不孝だと俺を罵るのなら、母親のためという大義名分は堂々と使わせてもらう。
「誕生日に、出て行くよ。父さんがいれば母さんは大丈夫だと思うから、将来のことなんかまだ考えられないけど……一人で生きてみる」
俺には成りたいものも、叶えたい夢も、特にない。その代わりに、家を出られたら行ってみたいと思っていた場所はある。
東京。この国で一番賑やかな繁華街、新宿に、ゲイが集まる場所がある。本当にそこに俺と同じ仲間がいるのか確かめてみたい。
「俺のスマホは、いつ返してもらえるの?」
「もう解約した。あんなものがあるから悪い誘惑に負けるんだ。お前には不必要だ」
父親に殴られた日にスマートフォンを取り上げられて、ネット環境も遮断されたままになっている。新宿の情報をもっと集めておけばよかった。でも、この世界に深呼吸できる場所があるかもしれないと思うだけで、俺の気持ちは少し軽くなった。
十八歳の誕生日に、旅の行き先ができた。
あの日止まったままの時間が、俺の中でやっと動きだす。
第2章を読んでくださってありがとうございました。自由を求めて旅立った主人公の物語は、第3章へと続いていきます。今後の更新の励みになりますので、ブックマークやポイントなどをお寄せいただけると嬉しいです。