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眩い星夜  作者: コギン
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第15章 1

 部屋の掃除はいっこうにはかどらない。店休日の半日を費やしても、コーヒーのドリッパーは出しっ放しで、キッチンひとつ片付けられない。

 寝室のベッドの上にたたまれて置かれたスウェットを、のろのろとゴミ袋へ入れた。クローゼットを開けて、橘の匂いのする服は全部処分する。ついでにゴミ箱も服の上から逆さまにすると、八菱の赤い社章が落ちてきた。

 社章も服も全部一纏めにしたゴミ袋は、たいした大きさではなかった。それをクッション代わりにぐったりと背中を預け、午後の白ぼけた天井を見上げる。

 一人暮らしに戻った自分の部屋が、こんなに殺風景だとは思わなかった。虚無感と疲労感が同時に襲ってきて、俺の思考回路を奪っていく。橘と会わなくなってから、もう三週間が経っていた。




「見事な赤字だ。来月もこの調子で頼むわ」

 定宿の革張りのソファの隣で、オーナーは言った。先月分の売上を表示したタブレットがテーブルの前に置かれる。それをバッグに収めることもせずに、俺は水割りのグラスを持ったまま、酔えない体を持て余している。

「どうした。一言も口を利かねえな」

「……元から愛想がいい方じゃないんで」

「少し痩せたか? 拾ったライオンを元の場所に返しただけじゃねえか。ったく、倒れねえ程度には食っておけよ、ルームサービスでも頼めや」

 俺は緩慢に首を振って、いらないと意思表示した。オーナーには橘との顛末を話してある。それなりに気を遣ってくれているのか、食事を強制的には勧めてこない。

 煙草の副流煙でくらくらするのは栄養不足と睡眠不足のせいだ。一人に戻った生活。一人に戻った店。ただ元通りになっただけなのに、俺の暮らしは空虚になった。

 橘と関係を絶ってしばらくの間は、自宅の電話も店の電話もよく鳴った。でも相手が橘だと分かると、俺はすぐに受話器を置いた。橘の方が冷静になってくれさえすれば、ゲイの男と婚約者の女と、どちらを取るのが正解か分かってくれる。そう思いながら無視を続けているうちに、ある日ぱたりと電話は鳴らなくなった。

 鳴らなくなったら鳴らなくなったで、苛々して電話を気にしてしまう。橘と話すことはもうないのに、まるで彼の連絡を待っているみたいでやるせない。スマートフォンを持たないままにしておいてよかったと心から思う。

「オーナー。俺、しばらく休みを取ってもいいですか」

 橘のことを考えないでいられるところに行きたい。自宅も店も、彼がいた空気がまだ残っている。こうしている今も、頭に橘のことばかり浮かんできて苦痛だ。

「休み?」

「何だか疲れちゃって。いっそ店を辞めさせてもらえないかなって、思ってます」

 心も体も、後ろ向きの衝動に駆られている。捨て鉢になる覇気もない。何年も前に新宿で暮らし始めた頃は、俺の中に確かな芯があった。今はそれがなくなってしまったようだ。

「辞めてどうする。新しい職場のアテはあるのか」

「ないです、そんなの。頭をからっぽにしたいだけなんで。肉体労働とか、いいかも。一日じゅう体を動かしたらよく眠れると思うし。少しは腹もへるでしょ」

「どうだかな。水商売に慣れたお前に、その手の仕事が務まるとは思えねえが」

「……ああ、体を使うならあっちか。オーナー、風俗店はどうです」

 オーナーの指先から、とん、と煙草の灰が落ちた。すっかり氷が融けたグラスを置いて、俺は不作法にソファの上で両膝を抱えた。

「キツい店がいいです。……売り専の。二丁目にたくさんあるじゃないですか。体も満たせて一石二鳥だ。何で今まで考えつかなかったんだろ」

 セックスに金銭が絡むことを、俺は頑なに拒んできた。橘に一度抱かれたきり、あれから何ヶ月も、誰ともセックスをしていない。彼が抱いた俺の体を、金と引き換えに他者に売ったら、煩わしいこの感情もリセットできるかもしれない。

「二丁目を歩いてりゃいくらでも相手は探せるだろう」

「それも何だか、億劫で。気分みたいなもんです。全部どうでもよくて、ただ痛めつけられたい、みたいな。複数で買ってくれる客とか、プレイは何でもいいですよ。オーナーならもっとキツい遊びも知ってますよね」

「おい、めったなことは言うな」

「本気です。……ヤクザにでも、頼めないかな。歌舞伎町は半グレが多くて本物のヤクザは表に出てこない。俺をどこかの組織に紹介してくれませんか。ヤクザの人たちなら、俺一人くらいどうにでもしてくれるでしょ。輪姦されてもかまいませ――」

「バカが」

 言葉の途中で、口に吸いかけの煙草を突っ込まれる。慣れない煙が突然に肺に入ってきて、激しく噎せた。




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