第14章 6
「橘さん、いきなり何を言い出すんだよ」
「嘘、よね。だって――そんな、……その人は」
男の人でしょう。と、彼女の呟いた声は小さかった。でもその一言に、俺の後ろめたさの全てが投影されている。
「嘘じゃない。俺は自分の気持ちに正直でいたいんだ。今、彼のところで暮らしてる。いずれこの部屋も引き払うつもりだ」
「航己さん!」
「星夜」
立ち尽くしていた俺を、橘は片腕で抱き寄せた。
「行こう。もうここに用はない。車を出すよ、食事に行く予定だっただろう?」
何度も彼女を抱いたはずの橘の腕。社長令嬢に背を向けて、彼はこの部屋を出て行こうとしている。夜の街でしか生きられない、この体ひとつしか持っていない俺を連れて。
橘の両目は澄んでいて、迷いや惑いはなかった。心を乱され、不安に揺れているのは俺の方だ。彼女と俺の価値の違いははっきりしている。今なら間に合う。俺に愛情を向けてくれた橘に、間違った選択をしてほしくない。
「――食事はやめとくよ。彼女の話、まだ終わってない」
「終わったよ。もうじゅうぶん話し合った」
「彼女は納得してないよ」
俺はずるいことを言った。橘を止めるために、彼女を利用した。
この部屋を出て行けば橘は全てを失う。成功しかない将来も。明るい真昼の世界も。それらと引き換えにできるほど、俺は上等でも有益でもない。橘は俺と同じ夜に生きる人ではないのだ。
「橘さん。もっと冷静になって、ゆっくり話し合ったらいいよ。ちゃんと二人でさ。……邪魔はしないよ」
書店で買ったガイドブックを、俺はデスクへと放り投げた。
「それあげる。仲直りに行ってきたら?」
橘と行きたかった雪のゲレンデ。彼の車の助手席で、ラジオでも聴きながら旅をしてみたかった。たった数日前に交わした口約束だから、叶えられなくてもかまわない。俺にとっては贅沢で、とても大事な約束だったとしても。
「俺はもう帰るね。ばいばい、橘さん」
彼の手が俺に二度と触れないように、元いたところへ帰ろう。真昼の世界を俺はもうとっくの昔に捨てたのだから。
「星夜、待ってくれ。歌舞伎町へ帰るなら俺も一緒に」
「何をマジになってんの。あんたが歌舞伎町? 冗談キツいよ。彼女もびっくりしてる」
橘の顔を見ないまま歩き出す。まだ涙を浮かべている彼女へと、俺は擦れ違いざまに声をかけた。
「――おねえさん。心配しなくていいよ、橘さんはゲイじゃないから」
ひくん、と彼女は喉をしゃくり上げた。面と向かってゲイと接したことがないのかもしれない。警戒して顔を強張らせる彼女を見て、俺は自分のあるべき立場を思い知った。
「ねえ。橘さんは、おねえさんに他の男がいてショックだったみたいだよ。だからヤケ起こしただけ。きっとおねえさんのことが大好きだったんだね。ちょっと俺が優しくしたら甘えられちゃってさ、正直、迷惑してたの。おねえさんに返すね」
「星夜!」
もう俺の名を呼ばないでほしい。嘘つきな元ホストが、嘘をつけなくなってボロが出てしまうから。
「ヒマ潰しにはちょうどよかったよ。でも、もう限界。捨てられたでっかいライオンの相手は疲れるんだよね」
「星夜、こっちを向け。俺の目を見て言え」
「もういいだろ? ゲイにおもちゃにされたバカな奴。あんたみたいなノンケを騙すのなんか簡単なんだよ」
声が震えてしまう。俺はやっぱりだめな人間だ。橘にごめんと叫びたくなるのを、昔さんざん使ったポーカーフェイスで押し殺した。
「専務さん。いや、次期社長さんだっけ? あんたすごいよ。これで少しは家族を見返してやれるね」
「……星夜……」
「賢くなれ。彼女、綺麗な人じゃん。結婚して全部手に入れなよ。うちのバーテンやってるより、そっちの方があんたには似合う」
橘には相応しい場所がある。後になって彼がそのことに気付き、不必要な義務感や罪悪感で俺たちの関係を続けられるよりも、今ここで自分から終わりにしたい。気まぐれに彼を拾った俺のけじめだ。
「俺の言うことなんか、信じちゃだめだよ。体が飢えたら優しさだって売る。たった一回のセックスのために、昔好きだった男に似てるって、嘘もつける」
「お前は嘘つきじゃない!」
「――嘘つきだよ。その証拠に、俺はあんたに本名すら教えてないだろ?」
「っ……」
もともと遠かった橘と俺の住む世界。昼と夜はけして交わらない。
「居候は今日までってことで。騙されてくれて、ありがとう。もう会わない」
言葉を失くした橘を、この部屋に置き去りにして歩き出す。
さよなら。胸の奥でそう呟いて、俺は玄関のドアを開けた。ブーツの踵を踏んだまま、マンションの外の通路を駆ける。
そしてまた夜が、やってくる。




