第14章 5
「星夜?」
電源を落としたパソコンのモニターに、不釣り合いな俺たちの姿が映り込んでいる。
本当にこれでいいのか。橘は、俺と一緒にいていいのか。彼が今までいた場所、過ごしてきた時間、それら全てから目を背けて、本当にいいのか。
答えを出せずに、俺は黙り込んだ。橘も黙って小首を傾げている。俺たちの沈黙は長くは続かなかった。
「――航己さん……?」
ドアが開錠される音と、女の声。俺たちははっとして顔を見合わせた。
「航己さん? 航己さん……っ、帰ってるの?」
慌てた足音が、玄関からこちらへと近付いてくる。心拍数が俄かに上がっても、やっぱり俺の足は動かない。
「航己さん!」
部屋へ駆け込んできた女は、俺たちを見るなり驚いて、足を止めた。気まずくて顔を伏せた俺を、橘はそっと背中の後ろに隠した。
「紗栄子。どうして君がここへ」
「合鍵を、預かったままだったから、時々ここへ来て、待っていたの」
スリッパを履き忘れた彼女の足が震えている。紹介されなくても、彼女が橘の婚約者だと分かる。
「よかった……。あなたのことを探していたのよ。私、あなたにひどいことをした」
彼女の目が涙で潤んだ。好きな男がいながら、橘と婚約した女。でも悪女と呼ぶにはその涙はひどく透き通って見えた。
「ずっと謝りたかった。あなたがいなくなって目が覚めたの。我がままなことばかり言ってごめんなさい」
泣きながら謝罪する姿が、雨に打たれた花を思わせる。お嬢様らしい清楚な身なりをした彼女は、橘と同じ昼の世界に住んでいる人間だ。二人の再会のシーンに紛れ込んでいる俺は、いったい何者なのだろう。
「顔を上げてくれ。君に謝ってほしいとは思ってない」
「いいえ。航己さんが私のことを思って婚約破棄したことは分かっています。父からの解雇を受け入れたのも、全部」
「買いかぶり過ぎだ。他の男との関係を聞かされて、俺は寛大な夫になれる自信がなかった。それだけだよ」
橘にもっと野心があれば、彼女を利用して会社のトップに立てたはずだ。出世もプライドも捨てて橘は彼女を解放した。自分のことを二の次にできるほど、彼女のことが好きだったのだ。
「あなただけが悪者になるなんて嫌。八菱に戻ってきて!」
彼女の声が部屋の壁に反響する。一人蚊帳の外で、俺は立ち尽くしていた。
「あなたは八菱に必要な人なの。あなたの代わりなんてどこにもいない」
「社員が一人辞めたところで、何の不都合もないよ」
「いいえ。私――私、本当のことを父に言ったの。あなたは何も悪くない、私が不誠実なことをしたんだって」
橘は緩く首を振った。でも彼女は引き下がらなかった。
「航己さん。父は解雇を撤回して、あなたを専務に据えたいと言ってる」
「……」
「あなたに謝罪をして、八菱を託したいって。今度の重役会で正式に承認するって言ってるの。だからお願い、戻ってきてください」
約束された将来が橘の前に提示された。最大手の商社の専務。その先に見える社長の椅子。会社員として生きてきて、最高の出世を魅力的だと思わない人間がいるだろうか。誰にも簡単にはできないことを、彼女なら橘に与えられる。
「重役会なんてくだらない。君には、夫として迎える人がいるだろう」
「いいえ――」
彼女は橘から視線を逸らし、口を噤んだ。口紅で艶めいた唇を戦慄かせ、彼女は手を握り締めている。
「あの人とは、別れます。あなたの妻にしてください。一生かけて、償わせて」
「……償う? そんなことをして何の解決になる」
「だって他に、どうしたら許してもらえるのか、思い付かないもの……っ。優しいあなたを傷付けたまま、平気な顔で生きてなんていけない」
「俺は君に幸せになってほしいから婚約を解消したんだ。俺と結婚して君は幸せになれるのか? 違うだろう? 社長――君のお父様だってそんなこと望んでいない。好きな人のそばにいるのが、一番幸せじゃないのか」
橘は正しいことを言っている。正し過ぎて胸苦しいほどだ。メイクが落ちてしまうことも厭わずに、彼女は泣いている。
「俺は八菱には戻らない」
「……どうして? 父も私も、あなたのことを待っているのに」
「一緒に生きていきたい人を見付けたんだ」
橘が後ろを振り返る。彼の両目が、優しい光を湛えて俺を見た。
「紗栄子、君に紹介するよ。――俺が愛している人だ」
「……え……っ」
彼女の顔が一度硬直し、そして青褪めていく。衝撃を受けたのは俺も同じだった。




