表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
眩い星夜  作者: コギン
65/77

第14章 5

「星夜?」

 電源を落としたパソコンのモニターに、不釣り合いな俺たちの姿が映り込んでいる。

 本当にこれでいいのか。橘は、俺と一緒にいていいのか。彼が今までいた場所、過ごしてきた時間、それら全てから目を背けて、本当にいいのか。

 答えを出せずに、俺は黙り込んだ。橘も黙って小首を傾げている。俺たちの沈黙は長くは続かなかった。

「――航己さん……?」

 ドアが開錠される音と、女の声。俺たちははっとして顔を見合わせた。

「航己さん? 航己さん……っ、帰ってるの?」

 慌てた足音が、玄関からこちらへと近付いてくる。心拍数が俄かに上がっても、やっぱり俺の足は動かない。

「航己さん!」

 部屋へ駆け込んできた女は、俺たちを見るなり驚いて、足を止めた。気まずくて顔を伏せた俺を、橘はそっと背中の後ろに隠した。

紗栄子(さえこ)。どうして君がここへ」

「合鍵を、預かったままだったから、時々ここへ来て、待っていたの」

 スリッパを履き忘れた彼女の足が震えている。紹介されなくても、彼女が橘の婚約者だと分かる。

「よかった……。あなたのことを探していたのよ。私、あなたにひどいことをした」

 彼女の目が涙で潤んだ。好きな男がいながら、橘と婚約した女。でも悪女と呼ぶにはその涙はひどく透き通って見えた。

「ずっと謝りたかった。あなたがいなくなって目が覚めたの。我がままなことばかり言ってごめんなさい」

 泣きながら謝罪する姿が、雨に打たれた花を思わせる。お嬢様らしい清楚な身なりをした彼女は、橘と同じ昼の世界に住んでいる人間だ。二人の再会のシーンに紛れ込んでいる俺は、いったい何者なのだろう。

「顔を上げてくれ。君に謝ってほしいとは思ってない」

「いいえ。航己さんが私のことを思って婚約破棄したことは分かっています。父からの解雇を受け入れたのも、全部」

「買いかぶり過ぎだ。他の男との関係を聞かされて、俺は寛大な夫になれる自信がなかった。それだけだよ」

 橘にもっと野心があれば、彼女を利用して会社のトップに立てたはずだ。出世もプライドも捨てて橘は彼女を解放した。自分のことを二の次にできるほど、彼女のことが好きだったのだ。

「あなただけが悪者になるなんて嫌。八菱に戻ってきて!」

 彼女の声が部屋の壁に反響する。一人蚊帳の外で、俺は立ち尽くしていた。

「あなたは八菱に必要な人なの。あなたの代わりなんてどこにもいない」

「社員が一人辞めたところで、何の不都合もないよ」

「いいえ。私――私、本当のことを父に言ったの。あなたは何も悪くない、私が不誠実なことをしたんだって」

 橘は緩く首を振った。でも彼女は引き下がらなかった。

「航己さん。父は解雇を撤回して、あなたを専務に据えたいと言ってる」

「……」

「あなたに謝罪をして、八菱を託したいって。今度の重役会で正式に承認するって言ってるの。だからお願い、戻ってきてください」

 約束された将来が橘の前に提示された。最大手の商社の専務。その先に見える社長の椅子。会社員として生きてきて、最高の出世を魅力的だと思わない人間がいるだろうか。誰にも簡単にはできないことを、彼女なら橘に与えられる。

「重役会なんてくだらない。君には、夫として迎える人がいるだろう」

「いいえ――」

 彼女は橘から視線を逸らし、口を噤んだ。口紅で艶めいた唇を戦慄かせ、彼女は手を握り締めている。

「あの人とは、別れます。あなたの妻にしてください。一生かけて、償わせて」

「……償う? そんなことをして何の解決になる」

「だって他に、どうしたら許してもらえるのか、思い付かないもの……っ。優しいあなたを傷付けたまま、平気な顔で生きてなんていけない」

「俺は君に幸せになってほしいから婚約を解消したんだ。俺と結婚して君は幸せになれるのか? 違うだろう? 社長――君のお父様だってそんなこと望んでいない。好きな人のそばにいるのが、一番幸せじゃないのか」

 橘は正しいことを言っている。正し過ぎて胸苦しいほどだ。メイクが落ちてしまうことも厭わずに、彼女は泣いている。

「俺は八菱には戻らない」

「……どうして? 父も私も、あなたのことを待っているのに」

「一緒に生きていきたい人を見付けたんだ」

 橘が後ろを振り返る。彼の両目が、優しい光を湛えて俺を見た。

「紗栄子、君に紹介するよ。――俺が愛している人だ」

「……え……っ」

 彼女の顔が一度硬直し、そして青褪めていく。衝撃を受けたのは俺も同じだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ