第14章 4
「俺の母親だ。とても怒ってる」
溜息まじりに橘は言った。
「きっと心配してるんだよ。会社を辞めてから連絡してなかったんだろ?」
「もともと家族とは疎遠なんだ。俺にはとても優秀な兄がいて、常に比較されながら育った。劣等感を抱えるのが嫌で、俺は高校を出てからずっと一人暮らしをしているんだ」
「初めて聞いた。兄貴がいたんだね」
「ああ。兄は外務省に入ってどこかの局長をしてる」
「それって官僚ってやつ? 親は何してる人なの?」
「父親は警察官僚。頭の固い、絵に描いたような頑固親父だ」
「うへぇ、すごいね。偉い人なんだ」
「偉いなんて思ったことはないよ。判事をしている母親も、常に案件を抱えて忙しくしてる。子供の頃の俺は、お手伝いさんに育ててもらったようなものなんだ」
官僚に判事、そしてお手伝いさん。いわゆる上流家庭というやつだ。橘は生まれた瞬間から、俺とは住む世界が違っている。
「家族に言わせれば、俺は民間の会社勤めを選んだ反抗心旺盛のクズなんだそうだ。人を見下すことに慣れてる家族のことが、俺は好きになれない」
留守番電話の案内よりも機械的な橘の口調が、全てを物語っている。上流家庭の次男として生まれた彼は、二十八歳の若さで大企業の商社の本部長を務めても、家族から蔑まれている。
「……橘さん」
彼もまた、居場所のない人間だったことを、俺は知った。恵まれた家庭の中で一人きり、彼は傷付けられながら生きてきたのだ。
「橘さんは家を出て、一人暮らしをして寂しくなかった?」
「寂しさを感じたのは、最初だけだ。慣れたら快適だったよ」
「夜、眠れなくなったこととか、ある?」
「それは、子供の頃から毎晩だった。眠ろうとしても、考えることがいっぱいあって、目が冴えてしまうんだ」
橘の告白を聞いて、俺は昔の自分を思い出さずにはいられなかった。
「俺も同じだったよ」
「星夜――」
俺は橘の背中に手を添えて、自分よりもずっと逞しいそこを撫でた。
ただ俺がそうしたかっただけ。同じ不眠症を患っていた彼に共鳴しただけだ。眠れない夜を過ごしていた頃にもしも出会っていたら、俺たちは本当に友達になれたかもしれない。
俺がとりとめもないことを考えている間も、留守録のメッセージは延々と続いていた。橘の仕事の関係者や、八菱商事の同僚、上司、英語やドイツ語、イタリア語の音声も入っている。
「あ……っ」
急に橘は短い声を上げた。ある一件のメッセージが流れている最中、彼は初めてメモを取った。現在時刻を確かめ、慌てたように受話器を持ち上げる。
「悪い、ちょっと連絡を入れさせてくれ」
「仕事?」
「ああ。ブラジルにある八菱の子会社だよ。そこの立ち上げに一から関わっていたから、俺と連絡が途絶えて困っているらしい。引き継ぎがうまくいっていないみたいだ」
他に仕事のメッセージはたくさんあったのに、橘はその件だけ気にかけている。電話はすぐに先方に繋がり、彼は流暢なブラジルの言葉を話し始めた。
外国語を自在に使い、流れるようなタイピングでキーボードを操作して、パソコンのモニターに次々と資料を表示させる。仕事をしている橘はとても颯爽としていて、俺が知っている彼とは雰囲気が違った。
俺が生きてきた夜の街と、橘が生きてきた昼の街は相容れない。俺の脳裏にふと予感がよぎった。彼はこのまま、元いたところへと戻ってしまいそうな気がする。
「――終わったよ。待たせてごめんな」
橘は受話器を置いた。彼の唇から放たれた日本語に、ほっと安堵した俺がいる。彼に戻るところはないはずだと、俺は自分で、自分の予感を否定した。
「解決、したの?」
「信頼できる元上司にフォローしてもらえるよう、依頼した。子会社の人たちには申し訳ないことをしたな」
「そう。用が済んだんなら、そろそろ……行こうか」
「ああ。車は地下の駐車場だ」
橘はそう言って、レザーの小物入れに置いてあった車のキーを取った。
この広い部屋から彼が持ち出すのは、スーツケース一つ分の荷物だけ。その他は置いて行こうとしている彼に、俺は何を言えばいいのか分からない。
「……っ」
俺の体は、知らないうちに硬直していた。歩き出そうとしても、足が動かなかった。




