第14章 1
テレビに雪のゲレンデが映っている。ナイトスキーで幻想的なシュプールを描いているのは、長野かどこかのスキー場らしい。
朝のワイドショーを見ながら濡れた髪を拭く。仕事中についた煙草の香りも、酒の残り香も、シャンプーで洗い流したばかりだ。先にシャワーをすませていた橘が、キッチンから淹れたてのコーヒーを運んでくる。ドリップで彼が淹れた日替わりのそれは、深煎りのブラジル豆だった。
「カフェオレにしようか?」
俺は眠る前に何も食べないことが多いから、橘が気を遣って牛乳を摂らせようとする。でもバリスタ並みの彼のコーヒーはいつでもブラックで楽しみたい。
「うまいよ。このままでいい」
「眠れなくなるぞ」
「そんな子供じゃないよ」
ソファを柔らかく沈ませて、俺の隣にスウェット姿の彼が座った。
橘に好きだと言われたあの夜から、表面上は以前と変わらない日々が流れている。歌舞伎町のネオンサインが輝く時間帯に働き、オフィス街が始動する時間に眠りにつく。この何ヶ月間か二人で繰り返してきた日常を、淡々と繰り返している。
でも、俺の中では何かが変わった。注意深く窺っていないと見逃してしまいそうなほど、些細な変化だ。
「まだ濡れてる」
バスタオルに手をやって、橘が俺の髪を拭いてくれる。彼の節の太い指がとても優しく動くことを、俺は知っている。
「何?」
「あ……えっと」
自分でも気付かないうちに橘を見つめていたらしい。タオルに隠れた狭い視界の中で、彼が小首を傾げている。
「どうした、星夜」
「いや、髪拭いてもらうの、ちょっといいな、って」
もっと遠回しに言えばよかった。正直な気持ちを言語化するのは難しい。
「星夜が喜ぶなら、毎日でもこうしてやる」
橘は気持ちを伝えることを躊躇わない。そして、どう返事をすればいいか戸惑う俺を、遠慮なく甘やかせるのだ。
「もういっそ髪を洗うのも俺がやってやろうか?」
「よしてよ、恥ずかしいだろ」
「お前専属のホストだと思えばいい。こういうのを永久指名って言うんだろう?」
「何でそんな単語知ってんの。俺は教えた覚えないよ」
体じゅうが、くすぐったくてたまらない。橘の言動が俺を浮つかせ、どんな顔をしていればいいのか分からなくさせる。
混乱を悟られないように、俺は橘から目を逸らした。定まらない視線をテレビの方へと向ける。
「すごいね。トーチを持ってナイトスキーなんて、よく滑れる」
「志賀高原か。学生の頃、よく行ったな」
同じようにテレビを眺めながら橘が呟く。プロスキーヤーのアクロバティックな技に、おお、と二人して声を上げた。
「星夜はスキーはする?」
ゲレンデを指差しながら、橘はそう言った。ウェアもボードもレンタルでしか使ったことがない。初心者に毛の生えたような俺と比べて、彼はウィンタースポーツも巧くこなせそうだ。
「スノボなら、少しだけ。ずっと前にホスト仲間と行ったことある」
「また行きたいか?」
「シーズンに一回くらいはね。あんまり長い休みとか取ったことないから」
そうか、と呟いて、橘はソファの背凭れに体重を預けた。
「一緒に行こうか。二泊三日くらいで、一日中滑って夜は温泉に入る。どう?」
「旅行……か」
ネオンもビルもない、新宿から遠いどこか知らない土地を、橘と二人で訪ねる。彼がただの居候なら、きっとこんなに俺の心臓は騒がない。
「い、いいのかな」
わけもなくどもってしまう。自分の声が、小さくなっていく。
「男どうしで、旅行なんかしても」
ぷっ、と橘が噴き出した。堪え切れなくなったように、彼はすぐ大笑いした。
「ホスト仲間とは行ったんだろう? 友達と泊りがけで遊んだり、普通にするじゃないか」
「――あんたとの旅行は、そういうのとは違うだろ。俺が女だったら、かわいらしくあんたに抱きついて、喜ぶんだろうけどさ」
そこでやっと俺は自覚する。旅行に誘われて嬉しい、と。でも気恥ずかしくて、表情に出さないようにしていたら、頬が変な風に引き攣った。
「もしかして、焦ってる? それとも照れてるのか?」
「う、うん……、どっちも」
「かわいいな。星夜は」
橘は俺の頭を撫でた。まるで小さな子をあやすみたいにされて、大変きまりが悪い。




