第13章 7
「こんなに、冷たくなって。橘さん。……橘さん」
名前しか呼べない自分がもどかしい。彼を温めているつもりで、俺の方が温もりに飢えている。教えてほしい。いや、知りたくない。寡黙な彼の心の中を。怒りの理由を。何故俺を、守ろうとしたのかを。
「星夜。店に戻れ」
「……ううん。あんたを連れて帰らなきゃ」
「俺はもう働けない。――客に危害を加えた。従業員失格だ」
「あんな奴、客じゃない。店長の俺が許す。殴ってやってもよかったよ」
俺がそう言うと、橘は首を振った。
「俺は、どんなに罵られても、侮辱されても、傷付いたりしない。尊敬のできない先輩の言葉なんか聞き流せる。でも、お前の店を悪く言われて、許せなかった」
俺の方を向いてくれないから、橘がどんな顔をしているのか分からない。静かな踊り場に独り言のような彼の声が反響している。
「自分よりも、お前が傷付く方が耐えられない。こんな気持ち、初めてだ。火がついたみたいに、俺にこんな激しい部分があるなんて、知らなかった」
「橘さん……」
「星夜だけは守ってやりたい。――どんなことをしても、絶対に、俺が守る」
吐く息は白いのに、囁かれる言葉は熱かった。俺は、橘を抱き締めている腕の力を強くして、シャツの背中に顔を埋めた。
「じゅうぶんだよ。あんたが楯になってくれたから、俺は無傷だ。ありがと」
「星夜」
俺の手に、橘が震えた手を重ねてくる。やがて全身に達した彼の震えは、寒さのせいだけではなかった。
「星夜、お前が好きだ」
稲妻が俺を貫いた。思いがけない衝撃で、俺の体まで震えだす。
「何、言ってんの? 冗談だろ」
橘の告白を、俺はすぐさま否定した。そうしなければいけないと、俺の心が臆病に叫んでいる。
「やだな、橘さん。びっくりさせんなって」
「ちゃんと聞いてくれないか、星夜」
「冷静になれよ。あんたの言ってること、おかしいだろ」
「何が。何もおかしくない」
「だって、俺……、ゲイだよ。橘さんと同じ、男なんだよ?」
「分かってる。でも――人を好きになることに男か女かなんて、お前と暮らしていて無意味だって知ったんだ」
「あんたは俺に恩を感じてるだけだろ? 勘違いしないで」
「勘違いじゃない。自分の気持ちは、自分が一番分かってる」
「だめだよ。橘さん、俺は――」
「応えてほしいとは言わないよ。俺が勝手に、お前に惹かれているだけだ」
怒涛のように、橘の想いが俺の中へと流れ込んでくる。彼を拒否しなければ、このまま溺れ死んでしまいそうで、俺は怖かった。
「だめだ。俺なんか、好きにならないで」
「星夜、自分を悪く言うのはやめろ。お前は芯から優しい人だ」
「橘さん、やめなよ――!」
「俺の気持ちを否定しないでくれ。お前を好きでいることを、許してほしい」
ゲイではない男が告げる、純粋な言葉。俺が誰にも告げたことのない言葉。初恋を終わらせた時に、俺は人を好きになる気持ちを失ったはずだった。
「星夜。……星夜。好きだ。お前のことが大好きだよ」
「もう、やめてくれ」
橘に名前を呼ばれるたび、俺は彼を拒んだ。でも彼を抱き締めている両腕を解けなかった。
「……橘さん……」
このまま、二人、一枚のコートの中で温め合っていたい。過去も未来もいらない。何の答えも出さないで、橘の想いに包まれたまま、今この時だけをたゆたっていたい。
「あんたが、誰を好きになろうが、俺は俺だ」
「うん――」
「俺は、ずるい奴だから、平気な顔で明日からもあんたを働かせるよ」
「それでいいんだ。お前のそばにいさせてくれ、これからもずっと」
俺が頷くと、橘の背中から、ほっとしたように力が抜けた。氷点下の雪の夜、俺たちは雑居ビルの片隅で、誰にも知られずにただ寄り添っていた。




