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眩い星夜  作者: コギン
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第2章 4

 その日の夜、教頭先生と学年主任が俺の自宅を尋ねてきた。秋川は二人の後ろに隠れるようにして項垂れている。

 教室で秋川が俺にした行為は、生徒に対する暴行ということになった。無理矢理診察に行かされた病院の診断書を前にして、客間のテーブルに苦虫を噛み潰したような大人たちの顔が並んでいる。

「どういうことですか! 分かるように説明してください!」

 母親のヒステリックな叫び。父親の死んだ魚の目。息子が教師に乱暴されたと思い、両親は平静を失っていた。

「お母さん、どうか落ち着いてください。私どもも何とお伝えすればいいか……」

 小太りの教頭が脂ぎった頬をハンカチで拭った。教頭と学年主任に挟まれて座った秋川は、この家に入った時からずっと口を噤んで、俺のことを見ようともしない。

「私は信じたくありません」

 喉から絞り出すように父親が言う。単身赴任先から空路で戻ってきた父親は、元から細い肩を病的なほど竦めていた。客間の隅で膝を抱えて、俺は大人たちの会話を聞いている。

「嘘であってほしい。息子が性被害にあったなんて、とうてい信じられない」

「――一部の生徒と、副担任が目撃しております。当校の教員が大変な事態を起こしまして、今回のことは遺憾に感じております」

「謝罪してください! うちの子に謝って!」

 また母親が金切り声を上げる。鼓膜が裂けるくらいの大音量だった。

「こんな教師、早く辞めさせて! 教頭先生、今すぐ学校から追い出してください!」

 秋川は一方的に責められている。真っ青な顔をして、肩を震わせながら彼はようやく声を発した。

「――私のせいじゃない。彼の方から私を変な目で見てきて、私がおかしくなるように仕向けたんです」

 潮が引くように、すうっと俺の体の深いところが温度をなくしていく。

 予感はしていた。教室で壊れたおもちゃのような姿を見た時から、きっと秋川は自分のしたことを認めないだろう、と。

「私は担任として、生徒の悩みを聞いてあげたつもりだったのに。か、彼が私を」

「いいかげんなことを言わないで!」

「私は何も悪くない……っ」

 いやらしく体を触ってきたのは秋川の方だ。そのことを訴えなければ俺が悪者にされる。でも何だか、どうでもいいという気持ちになってきた。

 自分がゲイであること。その秘密を守ることだけが、俺にとって最低限、生きるために必要なことだったから。秘密が秘密でなくなった今、秋川と俺のどちらが悪いかなんて議論に意味はない。

「私は誘惑されたんだ! 一度だけ魔が差しただけ……っ、私は同性愛者じゃない!」

 秋川が言葉を投げつけるたび、俺の胸にぽっかりと穴が空く。彼は言い訳を繰り返して自己保身をしているだけだ。すっかり呆れてしまった俺は、彼に事実を突きつけてみた。

「先生。先生は俺に言いましたよね、俺の味方だって、俺のことをほうっておけないって」

「言っていない! 私を君と一緒にしないでくれ!」

「……何、それ」

 彼の態度は俺を完全に失望させた。でも、彼が嘘をついていることを、俺は証明することはできない。その証拠になるものを、俺が何も持っていないから。

「秋川先生、少し口を慎みなさい」

「ですが教頭……っ」

「黙っていなさい、見苦しい。――私の指導が至らず、申し訳ありません。ご両親にはもうひとつ、お伝えしなければいけないことがあるのですが……」

「まだ何か? 事実は隠さずに言ってください!」

「実は……その、現場に居合わせた生徒が動画を撮影しておりまして、……言いにくいことなのですが、その動画が校内のSNSにアップされ、今、関係者の間で騒ぎが起きています」

「何ですって…!?」

「そんな馬鹿な……。息子の将来に支障が出たらどうしてくれるんですか!」

「動画のデータは早急に削除しました。ですが、噂や憶測はコントロールできません。たとえSNSを閉鎖しても、人づての噂をどこまで抑えられるか――」

 大量の汗を何度も拭いて、教頭は言葉を濁した。両親は顔を見合わせて絶句した。

 長い沈黙の後、母親は俺の両肩を抱いた。俺よりも母親の方が、傷付いた目をしている。泣いて化粧が剥げた母親の顔は、今晩のうちに十も二十も歳を取ったように見えた。

「あなたが、どうしてこんな目に遭わなければいけないの? 何も悪いことをしていないのに」

「父さんたちが守ってやれなくてすまなかった。お前は怖くて、逃げられなかったんだろう?」

 父親は、俺の頭を小さな子供にするように撫でた。両親は本気で俺のことを心配している。でも俺の気持ちは、両親の想いとは乖離していた。

「父さん、俺はかわいそうなの?」

 父親は驚いたように目を見開いた。母親も、はっとした顔をした。

 俺は秋川にされた行為がショックだったわけじゃない。彼が理解者の顔をして俺に近付き、その挙句に裏切ったことが悲しいのだ。

 秋川にあったのは身勝手な欲望だけで、彼は理解者でもゲイの味方でもなかった。縮まることのない無理解の距離感は、俺のことをかわいそうな被害者だと思っている両親も同じだ。

「俺の話を聞いて」

 大人たちは、たったひとつの真実を見過ごしている。みんなの前で膝を抱えている俺が、心の中で何を秘密にして生きてきたかということを。

「……俺、男の人が、好きなんだ」

 ネットの世界で知ったカミングアウトという言葉は、自分を肯定するための、とてもいいもののように思っていた。実際にはこんなにも捨て鉢で、それでいて重苦しくて、身を切られるようにつらい。

「え――?」

「何を、言っているの?」

 両親の視線が心臓に突き刺さる。

 嘘はつかないから、みんな、知ってほしい。これが十七歳の俺の真実。

「俺はゲイだ。自分がそうだと気付いたのは、中学生の時だよ」

「待ちなさい。父さんたちはそんな話が聞きたいんじゃない」

「俺は女の子じゃないけど、女の子みたいに男が好きなんだ」

「やめてちょうだい……!」

 激昂した母親に口を塞がれそうになる。ショックが強かったのか、父親は泣いていた。

「ほ、ほら、自白してるじゃないですか!」

「秋川先生、やめなさい」

「今回の件は彼のせいです! 全部彼が悪いんだ! 私は無実だ!」

「いい加減にしろ! 君の責任は改めて問う。教師の立場というものをよく考えなさい!」

 喚き散らしている秋川を、教頭は厳しく叱責した。秋川が頑なに拒んだ謝罪を、両親はもう求めなかった。



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