第13章 6
「橘さん!」
俺の呼びかけに、彼は応えなかった。白いシャツの背中が俺のそばから離れていく。コートも持たずに、橘は一人で店から出て行った。
「いったい何考えてんだよ、あいつ――」
橘のいなくなったカウンターに、俺は立ち尽くした。彼を追おうとしたが、気後れがして、俺の足は石のように動かなかった。
「星夜」
「……はい」
「お前は一途なライオンを拾ったな。真昼の太陽の匂いがプンプンする、眩しい鬣を持つライオンだ」
オーナーの低い声が、店のBGMのスロウジャズに重なる。オーナーの手元から立ち昇る煙草の煙を、俺はぼんやりと見つめた。
「あの厭味な客が、橘の話をしているって、オーナーはいつ気付いたんですか? 俺に連絡させて、橘が帰ってこないように仕向けたでしょう」
「そんなもん、お前の慌てた様子を見てりゃ一発で分かる。水商売はポーカーフェイスが基本だろうが。ヘタ打ちやがって」
「くそっ。……すみません。俺だけ取り乱して、バカみたいだ」
「俺に言わせりゃ、お前もライオンも、あの客もみんなバカだよ」
そう毒づいて、オーナーは肩を揺らして笑った。俺は何の反論もできなかった。
「あのライオンは、自分の身の置き方をよく分かってる。やけに冷静かと思ったら、熱いところもある。ただ嘘がつけねえようだから、あいつにホストは向いていない」
煙草をスマートフォンに持ち替えて、ふ、とオーナーは息を吐いた。
「星夜、あいつが何故、ああまで客にキレたか分かるか?」
「え……」
「人に水をぶっかけるなんて、あいつにとってはおそらく初めての暴力だろうよ」
オーナーはカウンターに視線を落とした。ダスターでは拭き取り切れなかった水の粒が、点々と残っている。カウンターに散らばったそれは、橘の怒りの痕だ。
店から出て行った彼の、まっすぐな背中を思い返しながら、俺は首を振った。
「分かりません。俺には、あの人のことは何も」
「おい、本気で言ってんのか? 客にこの店を侮辱されたからだよ。あいつは自分のことよりも、お前のプライドを守ろうとしたのさ」
「まさかそんな――」
プライドなんて、俺は考えたこともない。裏切り者の婚約者さえ許した橘が、あの八菱の客には怒りを向けた。その理由が俺だなんて、思いもつかない。
「随分と大事にされてるくせに、お前も鈍い男だな。本人に確かめてみろや」
「確かめてどうなるんです。俺は別に、あの人にどうこうしてもらおうとか、求めてない」
「お前がどう思っていようが知ったこっちゃねえよ。あいつはお前のことだけを考えてたんだ。ただお前を守りたくて、楯になろうとしたんだよ」
「楯……」
その単語を聞いた瞬間、俺の頭の中がクリアになる。思い出した。橘が以前、俺に言った言葉だ。
『もっと早く出会って、友達になれていたら、俺はお前の楯くらいにはなってやれた』
あれは、クリスマスイブだった。過去の出来事を打ち明けた俺に、橘はそう言ってくれた。あの言葉の通りに、橘は俺の楯になって、八菱の客から守ってくれたのだ。
「おい星夜」
スマートフォンを弄りながら、オーナーは俺を呼んだ。
「俺はこう見えて、忙しい身の上だ。あと十分ほどしか店番をしてやれねえ」
「店番って……、え?」
「ここで留守番をしてやるって言ってんだ。今夜は冷える。シャツ一枚じゃ、ライオンだって風邪をひいちまうぞ」
オーナーが、行け、と顎をしゃくる。尻を思い切り蹴飛ばされた気がして、俺は橘が忘れて行ったコートを引っ掴み、転げそうになりながら店を出た。
ドアから一歩踏み出した途端、身を切るような寒さが俺を襲う。隙間風が入り込む雑居ビルのフロアを、橘を探して見回した。すると、彼は暗い階段の踊り場で、落書きされた壁に片方の肩を預けて佇んでいた。
まくったままのシャツの袖が痛々しい。凍えているだろうその肌を温めてやりたいと、俺の本能が疼いた。
「――橘さん」
背中から彼に抱きつき、俺の体ごと彼をコートの中に包み込む。髪も耳も冷え切っていて、彼は氷の固まりのようだった。




