第13章 5
嵐のようなひとときが過ぎ、荒れていた店内の空気が少しずつ静まっていく。BGMが再び聞こえ始めてから、俺はぐったりとカウンターに突っ伏した。
「……すまない、星夜。店に迷惑をかけた」
「謝らなくていいよ――」
迷惑なんかかけられていない。謂れのない侮辱を受けて、つらい思いをしたのは橘の方だ。それなのに彼は、また穏やかな表情に戻って姿勢を正した。
「お客様、お騒がせして申し訳ありませんでした」
橘は、カウンターの端の席にいたその客がオーナーだとは知らない。頭を下げている律儀な彼の姿が、俺をやるせない思いにさせる。
「こいつはご丁寧に。ワケ有りなようだが、難儀な客だったな」
「いえ、職場で私情を優先した私のミスです。お客様はご常連の方でしょうか? 店長や店にはまったく関わりのないことですので、どうぞ変わらずご贔屓ください」
「ああ。俺に気を遣ってねえで店長をフォローしてやんな。あんたが帰ってくるまで悪口をさんざん聞かされて、涙ぐましい孤軍奮闘だったからよ」
オーナーは今、自分の素性を橘に明かす気はないらしい。人の悪い笑みを浮かべながら、俺のことをちらりと見て、煙草を吸い始めた。
「カウンター、すぐに片付けるから。星夜は休憩していて」
橘が手にしたダスターが、そこらじゅうに飛び散っていた水を吸い上げる。何故そんな風に冷静でいられるのだろう。
「片付けなんか後でいい」
平然として見える橘に、俺はもどかしさと憤りを感じた。
「どうして言い返さなかった。あんたがどうして会社を辞めたか、さっきの客に本当のことを言ってやったらいいじゃないか」
社長の娘のために身を引いた。自分から婚約破棄して、わざと悪者になった。そう告げるだけであの客はうるさい口を閉じただろう。
「あの先輩とは、以前から仕事上で意見が合わなかったんだ。単純に俺のことが嫌いなんだよ」
「そうだとしても、さっきの態度は異常だろ。ちゃんと謝罪してもらった方がいい」
「謝罪なんかいらない。どうせ形だけだ。本当の事情はお前だけ知っていてくれたらいい」
「何でだよ、我慢すんなよ! 橘さんは何も悪くないだろ! あの客も会社も訴えてやったらいいんだ!」
「――星夜、大きな声を出すな。お客様がいらっしゃるんだぞ」
「この人のことはほっといていい」
「おいおい。ひどい店長だな」
煙草を吹かしながらオーナーが苦笑した。濡れて重たくなったダスターを、橘は長身を屈めてシンクで絞った。
理不尽な扱いを受けた橘に、俺はもっと怒ってほしかった。悪意と真っ向から戦ってほしかった。それなのに彼は、ただ穏やかに微笑んで、俺を宥めようとする。
「星夜、解雇されたことを俺はもう何とも思っていない。それに、俺が八菱を訴えれば傷付く人がいる」
「何だそれ。あんたを裏切った女がそんなに大事か。あんなにひどいことを言われたのに、そこまでして守ってやりたいのかよ!」
怒りを抑えることができない。止めようもなく叫んでしまった俺に、橘は言った。
「違う。俺が守りたかったのは……」
声が途切れて、短い沈黙があった。橘は唇を噛んでいる。
「何だよ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
橘は首を振った。彼の顔に微笑みはもうなく、苦痛に歪んだように見えた。
「……ごめん。外で頭を冷やしてくる」




