第13章 4
「驚いたな。あの本部長が蝶ネクタイって。……随分似合っていますね」
バーテン姿の橘と、スーツの襟に社章をつけた客。客の両目に優越感が宿ったのが、俺にははっきりと見て取れた。人の負の感情は、それが大きければ大きいほど隠すことが難しい。自分が敵わない相手へ嫉妬や羨望を抱いているのならなおさらだ。
「申し訳ないんですが、その肩書きはやめていただけませんか」
「どうして? 敬意ですよ」
ついさっきまで悪口を言っていたくせに、客は見え透いた嘘をついている。慇懃無礼な相手に、橘は落ち着いた態度を崩そうとしない。
「私はとうに八菱を離れた人間です。呼び捨てにしてくださって結構ですよ、遠野先輩」
カウンターの中から客へと、橘は微笑みを向けた。触れれば弾けそうなほど緊張した空気に、先に呑まれてしまったのは部外者の俺だった。
「橘さん、奥で休憩して。熱いコーヒーでも淹れるよ」
客から橘を遠ざけたい。彼が不当に傷付けられそうで、見ていられない。
「ありがとうございます。シンクを片付けてからにします」
「そんなのいいから」
「――大丈夫だよ、星夜」
俺の下手くそな気遣いを、橘に見抜かれた。俺一人がおろおろして、間抜けだ。
「嘘だろ? 忙しく各国を飛び回っていた人が皿洗いなんて。あまり失望させないでくださいよ」
「お、おい、遠野、その辺でやめておけよ。さすがに失礼だぞ」
空気を察した常連客が、遠慮がちに囁く。シンクに流れる水の音がうるさい。
「皿洗いもやってみると楽しいですよ。例えばこのタンブラーは八菱の通商三課が輸入代行しているものです。流通を肌で感じられます」
シャツの袖をまくって、橘は手際よく洗いものを始めた。八菱の客は露骨に嫌な目つきをした。
「銀座の女を囲っていたとか、現地法人からリベートを吸い上げていたとか、社内は憶測だらけだ。ぜひクビの真相を聞かせてください」
「お話することは特にありません」
「気付いたんじゃないですか? 自分には不相応なポストだと。所詮、社長のゴリ押しで得た本部長職だ。そうでしょう?」
「もうやめろって。酔ったのかよ、言い過ぎだ」
「止めるなよ。一度面と向かって言ってやりたかったんだ。一般社員の気持ちなんて、エリートには分からないだろうけどな」
わざわざカウンターの向こうから身を乗り出し、客は橘を詰った。不快感が極まって、俺は思わず両手を握り締めた。橘は優秀な社員だったはずだ。こんな風に侮辱していい人間じゃない。
怒りのままシンクに打ち付けそうになった俺の右手を、橘の左手が止める。震えている指を彼の掌が包み込み、落ち着け、と制してくれる。カウンターの下で握り合った俺たちの手は、誰にも見えていない。
「遠野先輩のおっしゃる通りです。八菱という会社は私には重かった。今は肩の荷が下りました」
「負け惜しみにしか聞こえないぞ」
「本当です。……この街に来て、いい雇い主を見付けました。こちらの店長は、私を拾ってくれた恩人なんです」
ぎゅ、と橘が左手に力を込めた。行き場を失った俺の怒りが橘の体温に溶けていく。その温かさに気が遠くなりそうだった。
「仮にも八菱の元本部長が、情けない」
「何とでもおっしゃってください。入社した頃、先輩にご指導いただいたことを覚えています。でもここには、商社では得られなかったものがある」
「こんな小さな店で満足するのか。たかがバーテンで終わるつもりかよ。橘、お前もこの店と同じ、つまらない男だな!」
怒声が店内に響き渡る。おもむろに、橘はミネラルウォーターの瓶を手にして、客の頭の上でそれを逆さまにした。
「な、何をする……っ!」
髪を濡らした客が喚いている。橘はドン、と音を立てて瓶をカウンターに戻した。それは彼が今夜初めて明確に見せた怒りだった。
「お帰りください。あなたにお出しする酒はない」
冷たく橘が言い放つ。八菱の客は悔しそうな顔をして髪を掻き上げた。
「頼まれたって来るか、こんな店。おい、不愉快だ。行くぞ」
「ちょっ、遠野! 待てよ!」
常連客が呼び止めようとしても、八菱の客は憤慨したまま店を出て行った。
「あいつ、なんてことを……っ。気分悪くさせてごめんな、バーテンさん。店長、また日を改めるよ。これ、お会計。釣りは取っといて」
そう言って、常連客は多めの一万円札をカウンターに置いた。彼は別に悪いことをしていない。俺と同じ、トラブルの傍観者だっただけだ。
「だめです。水割りしかお出ししていないのに、こんなに受け取れませんよ」
「いいからいいから! 気にしないで! 今日は本当にごめんね!」
俺が返金するよりも早く、常連客は八菱の客を追い駆けて行った。




