第13章 3
「そりゃエリートにもなれるさ。バックがでかい」
「へぇ?」
「社長の一人娘の婚約者だからな」
シンクの蛇口をひねっていた手を止める。濡れた指先を見つめて、俺は、やっぱりと心の中で呟いた。
八菱の社章。二十八歳の営業本部長。社長令嬢の婚約者。橘のことに間違いない。
「婚約者ね。後継者ってことだよな。なるほど、そういうこと」
「年功お構いなしでトントン拍子に出世して、それで本部長ポストだ。恵まれ過ぎて周囲の恨みも相当買ってる。――正直に言うと俺は、そいつが消えてくれてせいせいしたよ」
厭味な口ぶりだ。この客が橘のことを嫌っていることがよく分かる。気を許した相手と酒を飲んでいるからか、自身の負の感情を隠してもいない。
会社員もホストも同じだ。ルネスでもそうだった。狭い世界の競争原理は、年下のライバルに追い抜かれることを良しとしない。
「で? その元本部長は今どうしてんの?」
「さあ。クビを切られた理由が婚約破棄らしいし、他社の引き抜きもないだろ」
「おいおい、次期社長の座を蹴ったのかよ。信じられんね」
「そいつがバカをやってくれたおかげで風通しがよくなった。俺の出世も見えてきたよ」
話を聞いているだけで頭痛がしてくる。橘が退職した本当の理由を知らないくせに、八菱の客は言いたい放題だ。
「祝いの乾杯しようぜ。店長。この店、シャンパンある?」
「――ええ、置いていますよ」
客の事情に踏み込まずに、どんな話をされても平気な顔をして仕事をこなすのがバーの店長の鉄則。でも、橘のことをあしざまに言う客に、うまく愛想笑いができない。
「こちらワインリストです。最後のページがシャンパンですので……」
「ありがとう。へえ、ワインもいいのが揃ってるね」
「だから言ったろ、俺が通うくらいいい店だって」
テーブル席からカウンターへ戻る途中、俺は客に気付かれないように溜息を吐いた。シャンパンクーラーと多めのアイスを用意しなくてはいけない。それを億劫に思っていると、オーナーに呼び止められた。
「星夜」
「えっ、あ、はい」
見ると、オーナーのグラスの中はほとんど減っていなかった。薄まったカルアミルクはアイスコーヒーよりもきっとまずい。
「作り直しますか。氷、だいぶ融けちゃってる」
「酒より腹が冷えた。おでんでも摘まむか」
「おでんはうちはやってませんよ」
「おい、どうしたお前。この店でぬるま湯に浸かってる間に感度が鈍ったか?」
手持ちのスマートフォンを、オーナーはカウンターに置いた。ぞくっと背筋を寒くさせるような目をして、俺の方を睨んでくる。
「従業員は何してる。――コンビニにでも寄らせて買ってこさせろや。ゆっくりでいいからよ」
「あ……っ」
頬を引っ叩かれた気分だった。自分の察しの悪さに呆れる。
「すぐ連絡します!」
橘が帰ってきてしまう。オーナーに言われるまでそのことが頭から抜けていた。今、橘と八菱の客を会わせるわけにはいかない。
橘に持たせているスマートフォンに連絡しようとしたその時、店のドアが開いた。俺はのろまな自分を心から呪った。
「遅くなってすみません。グレープフルーツ、近くの店が切らしてて」
頭に雪をかぶった橘が、深夜営業のスーパーの袋をさげている。仕事中の敬語を忘れたことがない彼は、両手を寒そうに擦り合わせた。
「だいぶ降ってきましたよ。大雪になるかもしれない」
「そ、そう。タオル使って。厨房でちょっと休んでなよ」
橘にタオルを渡しながら、それとなくカウンターの中へ誘導する。でも、うまくいかなかった。小さくて狭いこの店は、テーブル席からカウンターまでほとんど距離がない。
「――橘……本部長?」
椅子の脚を鳴らして、八菱の客が立ち上がった。凍えた髪を拭いていた橘が、テーブル席を振り返って手を止める。
「何で本部長がここに? えっ? どういうこと?」
一瞬、橘の肩が硬直したように見えた。オーナーが小さく舌打ちをした気がするが、俺の方はそれどころじゃない。
「一課の遠野さん、ですね。ごぶさたしております。八菱在職中はお世話になりました」
コートを脱ぎ、橘は丁寧に頭を下げてそう言った。内心穏やかではないだろうに、知人に出くわしても彼の表情は普段通り柔和だった。




