第13章 2
「お待たせしました。ご注文のカルアミルクです」
「おう」
真冬の歌舞伎町を、今期一番の寒波が襲っている。こんな日に冷たいカクテルを飲む客の気が知れない。降雪の予報が出ている中、久しぶりにオーナーが来店した。
「ヒマでいい店だな」
「自画自賛じゃないですかね、それは」
儲かっては困る税金対策の店だから、ヒマは褒め言葉だ。L字型のカウンターの端、店の奥側になるオーナーの指定席以外、今夜は席が空いている。
「星夜、お前が拾ったライオンはどうした」
「おつかいに行ってます。すぐ戻りますよ」
面接をするつもりで店にやって来たオーナーは、橘を見てどう思うだろう。実業家は人を見る目が優れている。今夜の俺は何だかそわそわしていて、マドラーを持つ手が落ち着かない。
「食事はもうすませたんですか? 何か作ります?」
「たまにはお前の腕をチェックしておいてやるか」
「そうだな、酒飲み専用の高血圧対策メニューでもどうですかね」
「病人食なんか食わねえぞ、俺は」
カウンターを挟んで軽口を言い合っていると、入り口のドアが開いた。
「こんばんは。二人なんだけど、空いてる?」
「いらっしゃいませ。ご覧の通り、座り放題ですよ」
来店したのは、以前からよく飲みに来てくれる常連客だった。いつも一人酒の客だから連れがいるのは珍しい。
「テーブル席へどうぞ。すぐにおしぼりをお持ちしますね」
常連客の連れの男は、初めて見る顔だった。コートを脱いだその男のスーツの襟元に、ピンバッジがついている。社章と思しきそのバッジに、俺の目は吸い寄せられた。
「あれって……」
円形に並んだ八つの菱。その社章は、橘が持っていた社章と同じものだ。解雇された傷を抉ってはいけないと思って、俺は自分から橘に詳しい情報を聞き出したことはなかった。
「コートをお預かりします。そちらのお客様は、初めてのご来店ですね」
テーブル席に腰を下ろした二人へ、俺はおしぼりを差し出した。その間も、小さな社章から目が離せなかった。
「俺の大学の同期なんだ。アメフト部のクォーターバック」
「友人からよく通ってる店があるって聞いて、連れて来てもらったんだ。歌舞伎町にしては静かで、隠れ家っぽいバーだね」
「ええ、それを売りにやらせてもらってます。……あの、よろしければお名刺をいただけますか?」
「いいよ」
気軽に答えて、男は名刺をくれた。『八菱商事』と記載されている。俺でも耳にしたことがあるくらい最大手の商社だ。
「今日はちょっとした祝い事があってさ。ツレに昇進の内示が出たんだと」
「ご昇進ですか。それはおめでとうございます」
「ありがとう」
「羨ましいぞ。八菱の営業一課長と言えば、花形だよなあ、花形」
「海外勤務が長かったからな。政治家の繰り上げ当選みたいなもんだ、今回の人事は」
俺は会社員の序列に疎い。名の知られた大企業の課長だから、相応に高いポジションなのだろう。キャビネットから常連客のボトルを出して、水割りのセットを運びながら、二人の会話に聞き耳を立てる。
「営業本部長が急にいなくなって、俺の上司がそのポストに収まったんだ。上が抜けてくれて助かったよ」
「左遷か。まあ、八菱は社内の競争が厳しいって有名だしな」
「いや、引き継ぎも何もなく即日クビだ。進行中のプロジェクトも他部署に丸投げ、社内にはまだ箝口令が敷かれてる」
静かな店内に二人の声はよく響いた。カウンターではオーナーが、飲みかけのグラスの縁に指を置いて、とん、とん、とBGMの拍子を刻んでいる。
「クビになったその本部長って、業界紙にもよく出てた超エリートだろ? 入社二年目でサウジオイルの合弁ネットを立ち上げたっていう」
「実績があったって消される時は一発だよ。元本部長と同じチームを組んだこともあるけど、俺より五期も下だぜ? 目の上のタンコブだったんだよ、実は」
「五期? じゃあまだ二十八歳か! はあ……、目の上どころか俺から見れば雲の上だな」
常連客が感嘆したように首を振る。その隣で、八菱の客は煙草を吸いつけた唇を奇妙に歪めた。苦々しそうな、揶揄を含んだ口元だった。




