第12章 7
「橘さん、あの人、諦めたみたい。あんたに変なこと言わせてごめん」
橘はやっと足を止めた。二人とも吐く息が白かった。
「肩、痛いよ。もう離しても大丈夫だから。さっきはありがとう、助かった」
厚いコートの布地越しに、橘の指が食い込んでいる。そこから彼の怒りが伝わってくるようで、わけが分からないまま立ち竦んだ。
「……」
ぽつ、と何か橘が囁いた。あまりに声が小さくて聞き取れない。
「何……」
「あの男に抱かれたのか」
「そ、そんなこと、あんたが知ってどうするんだよ」
「答えろ。星夜、抱かれたのか」
ビルの隙間から射す僅かな月明かり。銀色のそれに照らされて、橘の両目が獰猛に光っている。初めて向けられた彼の真剣な怒りに、抗う気持ちにはなれなかった。
「一回だけ――」
だん、と耳元で肉を打ち付ける音がした。肩の痛みが消えたのとほぼ同時に、ビルのくすんだモルタルに、橘が拳をめり込ませている。
「くそ……っ」
「橘さん!?」
ビルの狭間に俺の声が反響している。なおも殴ろうとしている橘の手を掴んだ。
「何やってんだ! やめろ!」
ハンカチを拳にあてがおうとすると、橘はそれを拒んだ。皮膚が裂けて、手の甲を伝った血がアスファルトに落ちていく。
「すぐ病院に行こう。この時間でも開いてるとこ知ってるから」
「いい。どうせ治らない」
「橘さん……っ」
「こうでもしないと、俺の気が収まらない」
橘は荒い息を吐き出した。白いそれが真冬の外気に溶けていく。
彼の拳がみるみる紅く染まっていくのを、俺は黙って見ていられなかった。
「傷口だけでも押さえて」
「ハンカチが汚れる」
「いいから! 何でこんな馬鹿なことしたんだよ……っ」
出血を止めたくて、彼の拳をハンカチで押さえた。それだけでは到底足りずに、ハンカチの上から自分の両手で包み込む。
「星夜」
彼の拳は痙攣していた。触れている俺にまで伝わってくる震えがやるせない。
「俺はあの男に嫉妬してる」
聞き間違いだと思った。はっと見上げた視線の先に、橘の真剣な顔がある。
「何て……言ったの……?」
「嫉妬、してる」
「……嘘だろ……?」
「嘘じゃない。お前がどんな風に抱かれたのか、考えるのも嫌だ」
「橘さん――」
「悔しいよ。……お前は誰のものでもないのに、さっきの男に負けたみたいで、すごく悔しい」
橘がまた拳を振り上げようとする。揉み合った体が外壁にぶつかり、二人してよろめいた。
「危ないっ」
縺れた足がバランスを失う。互いに支えるものを求めて、抱き合いながら外壁に半身を擦らせて蹲った。凍えるようなアスファルトの温度がスラックスの膝に沁みる。
「星夜」
橘の腕の中で彼の鼓動を聞いた。激しい拍動を繰り返す心臓が、俺の耳の下で暴れている。
「星夜、俺はお前を抱いたことを思い出せない」
「それは忘れろって言っただろ。思い出したってあんたが気持ち悪く思うだけだよ」
「もう一度お前に触れたい。嫉妬で気がおかしくなりそうだ。星夜……星夜」
橘がそんなにも嫉妬する理由が分からなかった。もう一度俺に触れたところで、彼が得られるものなんて何もない。せっかく忘れているのに、泥酔していたからこそ成り立ったセックスを繰り返してどうなる。
「ねえ、あんたは酔ってもいない正気の状態で俺を抱ける? 無理だろ?」
「分からない。でもお前に触れたいんだ。さっきの男みたいに」
「いい歳をして焼きもちかよ。ゲイの俺にそれは、不毛だよ。橘さん」
「――不毛かどうかは俺が決める――」
呻くような声ともに、橘の唇が俺の唇に重なる。それがキスだと認識するよりも早く、二つの唇は離れた。
「……橘……さん」
橘の唇は女しか知らないはずだ。一秒にも満たない短いキスで、彼はきっと思い知る。男は決して女の代わりにはならないことを。
「い、嫌だろ? 男なんかとキスするの。吐くんなら向こうでやって」
ゲイを相手にする現実を知って、橘が愕然とするのを見たくない。思わず唇を拭った俺を、橘は遠慮のない力で抱き寄せた。
「ちょっと待って、何してんだよっ」
「どうして逃げない」
「……逃げる暇なんて、今なかっただろ」
「俺が、昔好きだった男に似てるからか」
俺の唇は初恋の男を知らない。橘のキスが、長い間眠らせたワインの澱のような、冷たく俺の中に溜まっていた感情を揺さぶる。唇が触れただけで身を焦がす、熱い感情へと変えていく。
「やめよう」
橘の吐息が、俺の顔にかかる。パーティーで飲んだ酒の名残りは、もうなかった。
「こんなの――だめだよ。あんたがこんなことやっちゃだめだ」
「……星夜」
「あんたは女の方がいいんだろ――?」
橘からの返答はない。それを待っている間に、また彼の唇が俺の唇に触れた。彼をつき飛ばすことも、口の中に入ってくる舌を噛み千切ることもできるのに、俺は何ひとつ抗えないでいた。
「ん、く……っ」
呼吸ごと奪われた、脳髄まで痺れるようなキス。溺れる。溺れてしまう。体の芯に火をつけられて、唇を離せない。
気が遠くなって、俺は橘のコートの襟を掴んだ。嫉妬を隠さないまっすぐな男の情熱が、唇から容赦なく注ぎ込まれる。
ああ、まずいよ、飛びそう――
浮遊感が体を包んだ。さながら精通を迎えた少年のように、臆病に肩を震わせて、俺は橘の胸に崩れ落ちた。




