第12章 6
「俺は汚い奴なんだ。橘さん」
「そんな言い方しないでくれ」
「ストレートの男に、ゲイが甘えただけ。優しいあんたを利用して、寝る場所を与えて、今もペット気分で飼ってるだけだよ」
橘の顔を見たくなくて、前を向いたまま言った。路地のずっと先にある新宿公園にはゲイがたむろしている。夜更けのベンチや、植え込みの陰で、今この瞬間も性急に体を繋げている奴らもいるだろう。
「謝るのは俺の方なんだ。……ごめんね。身代わりにして」
「星夜は今も、その男のことが好きなのか」
はっとして振り返ると、橘はゴミの散らかった足元に視線を落としていた。
叶わなかった初恋を懐かしがるほど純粋な人間じゃない。心より体を満たす方を選んだ俺は、初恋に苦しんだ頃より汚れている。
「好きとか嫌いとか、恋愛はもういいよ」
この体を新宿の夜に投げ出して、やっと俺は生き延びてきた。二丁目を知った頃より感情の襞が繊細でなくなったのは、強くなった証拠だと思っている。
「――抱かれて気持ちよかったらいい。俺は抱く側じゃない。そこだけはっきりしてる」
多くを欲しがらない。ただゆらゆら、都会の見えない星のように、誰にも気に留められることなく静かに暮らしたい。この街に辿り着いた俺が求める望みは、こんなにも小さくてささやかなものなのだ。
「夢のない話だって、笑ってもかまわないよ」
橘は黙っていた。ネオンの光も遮断された路地裏で、自分たちは立ち尽くした。
腕を組んで歩くゲイカップルや、店をハシゴする酔客たちが、興味津々な目をこっちに向けて通り過ぎていく。沈黙したまま時間を忘れてしまった頃、不意に声をかけられた。
「あの、君。君、ちょっと」
こんな時に、いったい誰だ。面倒くさく思いながら声がした方を向くと、上背のある男がこっちを見ていた。
「ああ、やっぱり。――探していたんだよ、君を。俺のことを覚えているかな」
その男は俺の顔を確認するなり、嬉しそうに言った。物腰の柔らかい感じと右目の下の泣きボクロに見覚えがある。橘と出会う少し前に、ホテルで俺を抱いた男だ。
「二丁目ならきっと会えると思ってた。君を忘れられなくて、この辺りの店を随分回ったよ」
その男が寄越した連絡先のメモは、別れ際にくしゃくしゃに丸めて捨てた。二度も会うつもりはなかった。セックスをした後、彼への興味は完全に冷めていたから。
「あれきりだって言わなかった? 探されても困るよ」
「そんな風に言わないでくれ。俺はどうやら、君を本気で――」
「冗談でしょ。お互い割り切って遊んだはずだ。そういうの、うざいよ」
冷たいことを言っているのは分かっている。こっちの事情も考えず、一方的な感情をぶつけてこないでほしい。俺のことを欲さないでほしい。
「俺は遊びで終わらせたくないんだ」
「……やめろ。こっちはそんなつもりない」
「君だってあんなに求めてくれたじゃないか」
「やめろって言ってるだろ!」
癇癪を起こして叫んだ。すぐそばに橘がいることがいたたまれない。今の今まで存在を忘れていた程度の男に、しつこくされるのは迷惑だ。
「行こう」
橘の腕を取り、路地の向こうへ促した。
「面倒な奴に絡まれた。――頼む。走って」
表の通りまで出てタクシーを拾おう。駆け出そうとした自分の背中に、男の声が突き刺さる。
「今日の相手はその男かい?」
放たれた言葉は鋭かった。俺が思い通りにならないことに苛ついた声。嫉妬や執着の混ざった響きだ。
男のどろりとした感情が俺の足に纏いつく。雁字搦めのその不快さは、いばらの蔓から無数に突き出た棘に似ている。
「――相手が俺だったら何だというんだ」
橘が突然、口を挟んだ。俺の肩を抱いて、男を牽制するように睨んでいる。
「他人には関係のないことだろう。諦めの悪い男は嫌われるぞ」
「くっ……。ど、どいてくれよ。こっちは彼に用があるんだから」
「俺に許可もなく、勝手に話しかけるな」
「橘さん――?」
「お前も、未練がましい男なんかほうっておけ。行くぞ」
橘に引き摺られるようにして歩き出す。肩を圧迫する彼の手の力の強さが、尋常ではなかった。
暗くなっていく路地の先へと橘はどんどん進んでいく。さっきの男は追ってこない。やがて街灯も何もない、擦れ違う人もいない二丁目のエアポケットのような路地へ辿り着いた。




