第12章 5
一時間ほどシェスタで過ごした後、橘と歌舞伎町の街を歩いた。正月気分もようやく抜けて、新宿には普段通りの夜がやってきている。
「橘さん、もう少し飲んでいく?」
「いいけど、この辺は全然知らないんだ」
「じゃあリクエストしてよ。たいていのとこなら案内できるから」
酒は毎日飲んでいるが、不思議と飽きるということはなかった。特に強いとも弱いとも思わない。同じペースで飲める相手がいることが心地いいだけ。
「酔ったついでに、ゲイバーに行ってみる?」
「二丁目か。行ったことないな」
「静かに飲める店もあるよ。……ホステスはいないけどね」
風俗店の看板が男たちの欲望を煽っている。割引チケットを押し付けようとする客引きたちをやり過ごして、さくら通りを御苑方向へ進んだ。
新宿二丁目はオフィス街だ。ビルとビルに囲まれた狭い一画が、夜の帳が下りるとゲイの街に様変わりする。昭和三十年代まで女を売る遊郭で賑わっていたというから、皮肉なものだ。
前方から明らかに女装していると分かるグループが歩いてきた。この街はどんな趣味や指向の人々も掬い上げて、あたかも星空の一部のように輝かせる懐の深さがある。
「今、ウィンクされた」
橘が、つい、と俺のコートの袖を引っ張って耳打ちしてくる。俺はおもしろくなって、こう答えた。
「ウィンクし返してあげたら? 喜ぶよ」
「喜ぶ、のか?」
歩くだけで男の魅力を垂れ流すタイプだということを、橘自身は分かっていない。女装の彼らに誘惑されて戸惑っている姿が、二丁目を知って間もない頃の俺に重なる。
「ちょろそう」
「え?」
「何でもない。――ここが仲通り。賑やかだろ」
近年観光地化している二丁目は外国人も多い。花園通りと交わる仲通りは、人種もセクシャリティも様々だ。
「ナンパしようか。あっちの角にいる子」
裏通りに入る角に、二十歳くらいの痩せた男が立っている。落ち着かない目をしきりに左右に動かして、通行人を物色している。
「ネコだよ。ああ、抱かれる方のことね。今日の相手を探してる」
「どうして分かるんだ?」
「俺も二丁目に初めて来た頃はあんな風だった。……声かけられるのを待ってさ。ゲイ向けのマッチングアプリとかもあるけどね。ほら見て、目ざとい奴が狙いをつけたよ」
ネコの男のところへ、年恰好が同じくらいのタチの男が歩み寄る。二人は二、三言葉を交わして、すぐに路地裏へと消えた。
「はい、交渉成立」
「えっ、もう?」
雑居ビルの陰になっていて見えないが、その通りの奥にはラブホテルがある。ゲイたちが払う金で成り立っているホテルだ。
「すぐだよ。今頃あの二人は、キスし合って尻を撫で回してる」
橘は目を丸くした。彼の倫理観の中にフリーセックスは存在しないらしい。
「時間かけて恋愛してるゲイもいるから。そこは誤解しないで」
「その方が自然だ」
「あんたは本当に、ムカつくほど真面目でまっとうだね」
「――どこが。俺は酒に酔ってお前を抱いたんだぞ」
頬を風が撫でてゆく。真冬の夜風は酒気をいとも簡単に吹き消してしまい、賑やかな街の景色の中に立つ橘の言葉に重みを与えた。
「そのことは、もう忘れなよ」
「俺は星夜を傷付けたままだ」
まだ謝罪が必要だと思っているのだろうか。橘はまるで発作のように、ごめん、と言った。
「謝られても困る。本気で嫌だったら抵抗してたよ。そうしなかったのは、俺の勝手」
「俺が力尽くで抱いたから……」
「違うよ。橘さん」
人で混み合う仲通りを渡って、狭い路地を直進する。看板のない売り専パブへ客が入っていくのが見えた。
「……橘さんは、俺が昔好きだった男に似てる」
背後で橘が立ち止まった。振り返らないまま、薄暗い路地で俺も足を止める。
「顔立ちとか、目の感じとか、よく似てるよ。中学の頃の初恋の相手。本当はもう、記憶も曖昧だけどね」
思い出の中の同級生は、橘ほど目許が凛々しかっただろうか。鼻筋が通っていただろうか。橘に記憶を上書きされて、はっきりと思い出せない。
「俺、今までそいつしか好きになったことない」
「星夜――」
「橘さんがそいつに似てたから、拾ったんだ。逃げなかったのも俺の都合。橘さんをそいつの代わりにしたんだよ」
告白すらしなかった初恋の代償に、一晩夢を見ただけだ。ろくに抗いもせず橘に抱かれた。相手が男だということも分からないくらい泥酔していた彼を、都合よく利用しただけだ。




