第12章 4
「橘さんは、ああいうのは踊れる?」
ホストをしていた頃は、彼女とよく踊った。ルネスは上流で年配のマダムたちも来店するから、ダンス講習は必須だったのだ。ルカは俺にステップを一から教えてくれた師匠でもある。あの頃は女の肩を抱くことも、手に触れることも仕事のひとつだった。
「ボールルームダンスか。スタンダードなら教室で習ったことがある。上司に身に着けておいて損はないと言われて」
「へえ」
「少しだけ、ほんの嗜む程度だよ。彼女はなかなかの腕前だな」
しばらくの間、客と踊るルカを二人で眺める。BGMにヒールのステップが乗って、軽やかにドレスの裾が舞い上がる。
「ふん、やり手ママを気取って、何あれ。へったくそなラテン」
思わずグラスを持つ手が止まった。背中合わせに接している後ろのボックス席から、ルカへの中傷が聞こえてきた。
「たかが三年で天下獲った気なの? かわいそうな女」
「蘇芳グループがバックについてるそうじゃない。だからよ、あのドヤ顔。お得意の体でハナシつけたんじゃないの?」
「さすが、ソープ嬢上がりは違うわね」
ライバル店の関係者だろうか。遠慮憚ることのない女性客の様子に悪意を感じる。
祝いの席でルカの過去を語ることはタブーだ。彼女が風俗嬢をしていたことを知らない招待客も多いだろう。ここにいるのは、プライベートな事情を理解できる人間ばかりじゃない。
「……星夜、ごめん。聞こえた」
橘がバツが悪そうに囁いた。余計なことを耳にしてしまったようだ。
「ただの中傷ならたちが悪い。ボーイを呼んだ方がいいんじゃないか」
橘の頭の中でルカのイメージが崩れてしまっただろうか。彼もまた、風俗という一括りで女を判断する、薄っぺらくつまらない人種なのだろうか。
それは違うと、俺は自分の想像を否定した。何の根拠もないというのに。
「ボーイなんか必要ない」
「え?」
「さっきの女たちが言ったこと、本当だよ」
喉に絡んで自分の声が低くなる。思っていた以上に、俺はルカへの中傷に怒っていた。
「だから、さ。あんたは聞かなかったことにしてあげて」
綺麗で、賢くて、優しいルカ。この店を持つために、吉原のソープ街で彼女が切り売りしたのは、見事なダンスを披露しているその体だ。
「彼女は後悔してない。自分で決めてソープの世界に入った。クラブ・シェスタのオーナーママになって、人生の帳尻を合わせたんだよ」
橘はターンを決めるルカを見つめている。彼の目は哀れんでも、蔑んでもいなかった。
ルカのダンスは彼女が歩んできた人生そのものだ。背筋がまっすぐに伸びていて、気品がある。ルカの体の上を何千何万の男たちが通り過ぎようと、誰が彼女自身を咎められるというのだろう。
「彼女はとても、強い人だな」
「ああ。ここにいる誰よりもね」
「星夜。お前にいい友達がいて、よかった」
俺は橘の言葉を嬉しく思った。生バンドの演奏がジルバに変わる。ルカに最初にステップを教わったのも、そのダンスだった。
「橘さん、水割りもう一杯作っておいて」
小さな衝動が湧き上がるままに、俺はソファから腰を上げた。
「ちょっと汗かいてくる」
踊り終えたばかりのルカのもとへと歩み寄る。後ろの方から「あれルネスの星夜じゃない?」「えっ、あの!?」とざわつく声が聞こえる。
「『ルカ様、本日はご指名ご来店ありがとうございます』」
「星夜? どうしたの?」
「懐かしいだろ。このお決まりのセリフ、覚えてる?『あなたのナンバー1と、お相手願えますか?』」
「忘れるわけないじゃない。――ええ、喜んで」
ルカの手を握るのは何年ぶりだろう。煌めくライトの下で彼女と踊る。
「嬉しい。また星夜とこんな風に踊れるなんて」
「ステップ忘れかけてる。足踏んだらごめん」
「いいの。――あのね、うちのマネージャー、銀座店に回ってもらったから。ここにはもう出入りさせないわ」
「え?」
「あなたに失礼なことを言ったそうね。ごめんなさい。彼に代わって謝ります」
「……気にしてないよ」
前回この店に立ち寄った時に、俺を侮辱したマネージャー。どんな顔をした奴だったか思い出す前に、ルカは囁くように言った。
「ねえ星夜。――最高のプレゼントをありがとう。今日ここに来てくれた誰よりも、あなたのことが好きよ」
俺もルカを、好きになれたらよかった。女を愛せる男だったら、こんな下手くそなエスコートではなく、両腕で優しくルカを抱き締めてやれただろうに。
「ルカさん。もっともっと店を広げて、東京中に城を作れよ。新宿も銀座も、ルカさんの街にしちまえよ」
「星夜」
「誰にも文句言わせないように、勝ち続けてよ。星のない街の女王様として」
「……星夜、……やだ、メイク取れちゃう……」
泣き出しそうな顔をしてルカは笑った。曲の終わりとともに、束の間のホストもお役御免になる。すぐに次の曲が始まって、待ちかねていた次のダンスの相手がルカの手を取った。
「おかえり。見惚れるくらい、お似合いだった」
席に戻った俺に、橘は冷たいグラスを差し出した。息切れするから、この先二度とダンスは踊らない。最後に踊った相手が、彼女でよかった。




