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眩い星夜  作者: コギン
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第11章 3

「高校生の時の話だよ。自分はゲイだって、俺、両親にカミングアウトしたんだ。全然理解してもらえなくて、怒った父親に思い切りぶん殴られた」

「……お前のことを、受け止めてはもらえなかったのか」

「別に珍しくもない、よくあるパターンだと思う。話し合って分かり合うってことが、俺と両親はできなかった。母親は完全に拒絶して、俺を視界に入れなくなったしね」

「そうか……」

 橘は囁いて、傷痕ごと俺の頭を撫でた。彼の掌から伝わってくる同情は控えめで、だからこそ誠実だと思った。

「ご両親から連絡はあるのか?」

「ない。高校を中退して、十八で家を出たんだ。それ以来、俺も電話ひとつかけてない。もしかしたら両親は、もう地元の街には住んでないかも」

「どうして?」

「ネットにね、流出したんだよ。生徒と保護者が閲覧できる学校のSNSに、担任にセクハラされてる俺の動画が」

「待て。担任の先生が、何だって?」

 思い出すのが苦痛な思い出ほど、何故鮮明に頭に残っているのだろう。

 あの日は、とても蒸し暑かった。俺は夏休みに入る前の補習を受けていた。俺の股間をまさぐってきた、担任の手の絶望的な感触を、忘れたことは一度もない。

「聞こえなかった? 下着の中に手をつっこまれたの。すげえいやらしく触られた。それを他の教師やクラスの奴らに見られて、動画を撮られて、問題になったんだ」

 そこまで言って、俺は笑った。過去を笑い飛ばしてやるつもりだったのに、自分の頬が、塗布した糊が乾いたようにつっ張る。

「担任は俺がゲイだって気付いてたみたいだ。怖がってる俺に、間違ってないよって言った。君みたいな子はたくさんいるって、先生は君の味方だよ、って。俺はガキだったからそれを信じた。でも担任は逃げて、俺は退学して、それで終わり」

 橘が息を呑んだ気配があった。

 あの頃の俺は浅はかだった。目の前のものしか信じないで、優しく見えた人が心の中でどんな欲望を滾らせていたか、そこまで考えが及ばなかった。両親の目には、俺のことが担任の手垢がついた汚物のように見えただろう。

「両親は最初、俺のために担任に怒ってたよ。だからカミングアウトした時は、二人ともショックを受けてた。ゲイって存在が生理的に無理だったんだ、仕方ないよね。両親にももう、俺のことを理解してほしいとは思わない。……中学の頃に男の友達を好きになって、嫌われたくなかったから何も告げずに失恋した。それからずっと、ずっと俺は一人だ。つまらない話をして、ごめんね」

 寝室が静寂に包まれる。橘と二人でいるベッドは温かいはずなのに、俺は、顔の右半分を冷たく感じた。枕をしている橘の腕が濡れている。

 両親に別れを告げた時、一滴も流れなかった涙が、今になって俺の両目から零れていた。

「嘘だろ……?」

 俺は愕然とした。俺の中の何かが崩壊して、元に戻ってくれない。

「星夜」

 名前を呼びながら、橘は背中から俺を抱き締めてきた。俺の胸の前で交差する彼の腕が震えている。

「――何のつもりだよ」

「今だけ、こうさせてくれ」

 俺は自分ほど間抜けな人間はいないと思った。

 これではまるで、俺が橘に慰めてもらいたがっているみたいだ。彼にこんな抱擁をしてもらうために、過去を打ち明けたわけじゃない。

「離してくれよ。橘さん」

「いやだ。お前が泣き止むまでこうしてる」

「離せよ」

 語気を強めても、彼は腕を離さなかった。

「俺が抱き締めているのは、高校生や中学生だった頃の星夜だ」

「意味分かんないこと言うなよ。あんたは今の俺しか知らないだろ」

「お前の中に、傷付けられたままの小さな星夜がいる。お前は俺に言っただろう? つらい時は受け止めてやるって。お前の過去を知った上で、見て見ぬふりをするのは、俺はいやだ」

「受け売りかよ」

 橘のことを信じ切れずに、俺の心がブレーキを踏んでいる。優しい言葉が孕む毒を、俺はよく知っているから。

「俺があんたのことを、簡単に信用すると思ってる?」

「信じられなくてもいい。でも俺は、星夜を守るよ。もっと早く出会って、友達になれていたら、俺はお前の楯くらいにはなってやれた。お前を一人にはさせなかった」

「やめてくれよ……!」

 橘の声が、囁きが、俺の耳の奥に残っていた担任の声を消し飛ばす。両親の面影も、初恋の相手の思い出さえも。俺を呪った全てのものを、過ぎ去った時間のかけらに変えて蹴散らしていく。

「泣きたくないのに、なんで止まらないんだよ……!」

 俺の両目から涙が溢れ出た。

 二十五歳のクリスマスイブ。その日俺は、声が嗄れるまで泣いた。橘に抱き締められたまま泣き疲れて、初めて店を臨時休業にした。




 セックスもせずに、俺と橘は同じベッドで眠り、同じベッドで目覚める。おやすみとおはようを何度となく繰り返すうちに、そうすることが日常になった。橘を雇ってから店の売上が伸びたことを、オーナーに叱られると愚痴ると、彼は困った顔をして笑っていた。彼の笑い皺を見ると、つられたように俺も微笑んでしまう。

 大晦日、除夜の鐘の代わりに店のBGMを聴きながら、そんな日にまで酒を飲みに訪れた客たちとカウントダウンをした。去年の暮れも同じことをしたが、その時は橘はいなかった。時計の針が零時に重なった瞬間、また新しい一年が始まる。次の大晦日も橘はここにいるだろうか。

 そんな遠い話、鬼にだって分からない。




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