第11章 2
「びびった?」
「ああ、少し。いやかなり」
「ふふ。かわいい人だね」
ベッドヘッドに腕を伸ばし、ティッシュボックスを手に取る。俺は出来の悪いペットを躾けるつもりで、箱の底で橘の頭を小突いた。
「溜まってんじゃない? 橘さん」
「率直だな。淡白な方だし、別にそんなことは……」
「女、作れよ」
「……星夜」
「俺に腕枕してないでさ、そっちはそっちで適当にやってよ。そしたら俺も、男と遊ぶからさ」
深く息を吸い込むと、今まで気付かなかった香りが肺に充ちた。橘と俺の匂い。シャンプーと体臭の混じった、二人分の匂いだ。
橘と過ごしたこの一ヶ月の間、俺は誰にも抱かれていない。二丁目にも一度も足を向けなかった。そんな義理はないはずなのに、まるで橘に遠慮をしているみたいで滑稽だ。
「橘さん。俺、店を開ける前にちょっと出かけてくる」
ぴく、と彼の頬の筋肉が波打った。硬化した、と言った方が正しいかもしれない。
「どこへ行くんだ」
「野暮用。――聞かない方がいいんじゃない?」
「星夜、お前」
クリスマスイブの二丁目は、普段よりも賑やかだから遊び相手は簡単に見付かる。イベントを開いている店に立ち寄るのもいい。
「何て顔してんの、橘さん。……おかしいかよ、俺が男が欲しくなったら」
自然なことだ。男が女を求めるように、女が男を求めることもあるだろう。たまたま俺は男を求める男だというだけ。それを橘に分からせようとして、何故だか苛ついている自分がいる。
「二十五歳の熟れ頃のゲイだよ。今遊ばないでいつ遊ぶの」
皮肉めいた言い方だと我ながら思う。男を漁りに行くこと、それを橘に宣言すること、どちらにも奇妙な後ろめたさを感じた。
「星夜は特定の相手は作らないのか?」
「彼氏を作ったことはないよ。これでも好みはあるけどね。別に好みじゃなくても、その時々で気が合えば寝る」
「危険だろう」
「ゴムはつけるさ」
「そういうことじゃなくて……」
困惑した表情を浮かべて、橘は溜息をついた。
「お前を大事にしてくれる相手と長くいる方が、幸せじゃないか」
「幸せ、ね。俺にはよく分からないな」
自分の恋愛観が歪だということはよく分かっている。十五歳で初恋を終わらせて、十七歳で痛い目にあった。心より先に体を満足させることを覚えたから、恋愛の純粋さや幸福感を知らないまま俺は倦んでしまったのだ。人を好きになるという感情に。
「特定とか、どうでもいいんだ。こんなだから俺は恋愛には向かないよ」
この体を新宿の夜に投げ出して、得たい幸福は束の間の温もりだけ。二丁目を知った頃より感情の襞が繊細でなくなったのは、肌を重ねた男の数を数えなくなったから。
「……男に抱かれて気持ちよかったらいい。俺は抱く側じゃない。はっきりしてるのはそれだけ」
俺は多くを欲しがらない。ただゆらゆら、都会の夜空の見えない星のように、誰にも気に留められることなく静かに暮らしたい。この街に辿り着いた俺の願いは、こんなにもささやかなものなのだ。
「子供じゃないんだ。大事にしてもらわなくても、楽しくやっていけるよ」
こんなことを言ったら、また橘は寂しそうな顔をするだろうか。お人よしの聖人らしく。
「星夜は人間不信なところがある」
「はは。ゲイをやってりゃね、多少は理不尽な想いもするからさ」
「お前は多分、俺よりもたくさんのことを知っていて、想像もつかないような経験をしてきたんだと思う」
瞬きの少ない橘の黒い目が、俺をじっと見つめている。はぐらかすことを許さない、真摯で観察力のある目だ。
「そうだね。いいこともあったけど、見なくてもいいものも、たくさん見てきたよ」
ふと頭に、忘れることのない顔が幾つか浮かんだ。初恋の同級生。高校の担任。両親。他にもたくさんの、俺との関わりを疎んで去って行った人たち。
「……走馬灯かよ」
こんな自虐的な追憶、やめておけばよかった。消化不良を起こしたように鳩尾が苦しくなる。とうに治っていたはずの古傷が、じくりと疼きだす。
「どうした? 星夜」
橘に悟られたくなかった。いつまでも古傷を抱えているなんて、飛び立てない手負いの鳥のようで哀れだ。
「何でもない――」
寝返りをうって彼に背中を向ける。腕枕をされたままでは逃げ場がない。頭の中に浮かんだたくさんの顔を、もう一度思い出の向こうへとしまい込む。
「嫌なことを聞いてしまったんだな。……ごめん」
寝乱れた髪に温もりを感じた。橘の大きな掌が、俺の耳の後ろをゆっくり撫でていく。
「あんたしょっちゅう謝ってるね」
「自分が悪いことをしたら、謝るのは当たり前だ。ごめん」
「そんなに許してほしいの?……くすぐったいよ」
橘の掌は、いつまで待ってもそこからどかなかった。髪から地肌へ彼の体温が伝わってくる。じんわりと広がる聖人の温もりが、鍵をかけていたはずの俺の心を融かしていく。
「俺の頭の横、右の耳の上の方に、傷があるだろ」
橘の指が、俺の耳の生え際から慎重に髪を掻き分けて、傷の上で止まった。
「けっこう大きな傷だな」
「それさ、父親に殴られた拍子に、ドアの角にぶつけた痕なんだ」
橘の指が傷から離れた。彼が戸惑ったことを、その仕草で俺は察した。
自分から打ち明けておいて、俺は話の続きを語ることを怖れている。記憶とともに湧き上がってきた不快感で、俺の背中は汗ばみ、喉の奥が渇いた。




