第10章 4
「何であんたみたいな人が、ここにいるんだ」
今シャッターを下ろしているこの界隈は、あと数時間も経てばネオンサインの輝く華やかな歌舞伎町の一部になる。でも橘が倒れていたのはここよりもずっと朽ちた裏通りだ。街の住人でさえ避けて通るゴミ溜めに、彼はぼろぼろになって自らを捨てた。
「死んでもいいと思っていた俺を、星夜が救ってくれた。親身になって本気で怒ってくれた。俺はな、星夜、彼女にしたことをお前にもしたから、自分が許せなかったんだ。弱くてどうしようもない、消えてしまいたいと思っていたんだ」
傷付いた動物を拾って面倒を見ることと、俺が彼にしていることは同じだ。食事と寝る場所を与えて、気まぐれにあやしているに過ぎない。
あの雨の夜に素通りしていれば、橘のことを知らずにすんだ。彼が本当に聖人だったことを知って、こんなにも狼狽えずにすんだのだ。
「……橘さん。この話、本当は打ち明けたくなかったんじゃないの?」
「もう口にするつもりはないよ。俺のことを救ってくれたお前にだけは、聞いてほしかったんだ」
「おかげでイライラしてるよ。すぐキレるんだぞ、俺は」
「短気なのは知ってる。……でも星夜は自分で思っているより、ずっと優しい人だ」
「優しくなんかないって言っただろ」
「俺が自分のことを打ち明けるまで、お前は何も聞き出そうとしなかった。優しいよ」
「それがこの街で暮らすルールだからだよ」
外から流れ着いた人間に、この街は寛容だ。元いた場所にいられなくなった理由が重たければ重たいほど、過去やいきさつを聞かないことが暗黙のルール。その不文律に守られて俺も生きてきた。
「お前の店はこの辺りか?」
雑居ビルの外壁にある、点灯していないたくさんの看板を見上げて橘は言った。
「違う。さくら通りを区役所方面に進んだところ」
「そうか。バーって言ってたな。すごいな、自分の城を持っているんだな」
羨ましそうに呟いた彼に、ただの雇われだよ、と返すのは気が引けた。
橘はどこにも属していない。昼の世界に居場所をなくして、夜の世界にも馴染んでいない。ちょうど夕刻へ進みかけた空の色のように宙ぶらりんな彼を、孤独だと思った。
「うちで、働く――?」
無意識のうちに、自分の口がそう動いていた。橘が不意を突かれたような顔をしている。
「星夜の店?」
「……うん。俺一人でやってるから、洗い物とか、溜まって困る時があってさ」
「バイトか。学生時代みたいだな」
「客の相手は俺がするから、カウンターでグラス出したり、裏方やってくれたら、助かる」
ヘルプが必要なほど忙しい店じゃない。ただ、橘に何か与えたかった。彼がなくしたものの何分の一かでも。
「居候、やっぱり迷惑か?」
「違うよ。ヘルプに入ってくれたら給料も出せるし。マンションでじっとしてるより気晴らしになるだろ」
「星夜……」
「無理には勧めない。本当に小さい店だし。もしよかったら、考えてみて」
言うだけ言って歩き出す。どう返答するかは橘の自由だ。働くつもりがあるなら、オーナーには後で話を通せばいい。
どこか心が落ち着かなくて、俺はジーンズのポケットに手を突っ込み、指に触れた部屋の鍵をいじった。
「世話になってもいいのか」
背中側から聞こえた橘の声が、いくらもない彼と俺との距離を埋める。彼の返答にほっとしている自分がいる。
「恩とか、つまんないこと考えてんならやめてね。水商売はあんたのしてきた仕事とは違うんだ」
「雇ってほしい。俺が必要なら」
「橘さん――」
「お前のことはマスターと呼んだらいいか? なあ、星夜」
ビルの隙間から漏れる西日が恨めしい。熱くなった頬を隠せない。マスターと呼ばれただけで照れた自分は、おかしい。
「……やめなよ。変だ」
「マスター」
「橘さん。調子狂うよ」
熱は頬から顔全体へと広がっている。そしてすぐに、首の後ろへも伝染した。
「かわいいな。赤くなって」
「からかうな」
「本当だよ。――星夜は優しくてかわいい」
これ以上、橘の冗談に付き合う気はなかった。裏街の筋を一本折れて、表の新宿通りへと大股で向かう。
経費の使い道がまた増えた。白シャツと黒タイのバーテンスタイルを、きっと橘はうまく着こなすだろう。




